僕たち夫婦には3歳になる息子(けいちゃん)がいて、家族3人で暮らしています。
家の中には息子の記念日に撮った写真や保育園から貰ってきた写真がところどころに飾ってあって、たまに息子を抱っこしながらそれらの写真をネタにしてお話をすることがあります。
ある時、1歳になるかならないかくらいの写真を見て、息子が「これはけいちゃん」と自分自身を認識していることに気がつきました。
「へー意外とわかるもんなんだな、それじゃあ赤ちゃんの頃の写真はどうなんだろ?」と思って、
息子が生まれた日の写真を見せながら「これ誰だ?」と聞いてみました。
僕「これだぁれだ?」
息子「赤ちゃん。」
僕「そう!赤ちゃん。誰の赤ちゃんの時の写真だと思う?」
息子「アンパンマン」
僕「アンパンマン(笑)?これはけいちゃんが赤ちゃんの時の写真だよ。」
息子「違うよ。牛さんだよ。」
(※近くに牛の絵が書かれた牛乳が置いてあった)
僕「これね、けいちゃんがママから生まれてすぐの写真なんだよ。」
息子「違うよ。」
僕「ママ~これ誰の写真かわかる?」
ママ「けいちゃん」
息子「違う!けいちゃんじゃないっ!」
ママと僕「笑」
さすがに赤ちゃんの頃の写真となると今とまったく違う顔をしているので、3歳の息子がその変化を頭の中で理解するにはまだちょっと早かったみたいです。
この3歳の息子が絶対に自分と認めない写真は、僕にとっては一番好きな写真です。
息子にとってはこの世に生まれてきて一番最初に撮られた写真で、僕にとっては最高に「愛おしさ」を感じる一枚です。
でもなんでこの写真にそんなに愛おしさを感じるのだろう。
息子が生まれて一番最初に撮られた写真だから?
妻に「僕は息子の写真の中でこれが一番好きなんだけど」と聞いてみると、
「えっそう?ガッツ石松みたいじゃん、他に可愛いのいっぱいあるよ」という答えが返ってくる。
生まれて一番最初に撮られた写真というのでは、少し説得力に欠けるみたいです。
たぶん、僕がこの写真を見る時は、かけがえのない出産の日の記憶とセットで見ているからだと思います。
妻が息子を出産した日は色々なことが起こりました。
最初は自然分娩の予定だったけれど、破水してからもなかなか子宮口が開かず、その日にいる先生に診察してもらったら
「担当の先生、この赤ちゃんの大きさで自然分娩でいこうとしてたの、帝王切開でしょ。」
と急遽、帝王切開に切り変わったこと(内部の先生同士で意見が違うとか勘弁して……)。
いやいやそのちょっと前には、妻が陣痛で苦しんでいる時にテニスボールをまじめに押さずに怒られたこと。
(全国のこれからパパになる人は出産当日にはそういった役割があるということを予習していってくださいね(切実)!ましてや義母にやらせないでくださいゼッタイ!)
生まれた息子が看護師さんに抱っこされて待合室にやってきて初対面を果たした時、びっくりするくらいのビッグサイズで登場して待っていた僕と両親、義両親を驚かせくれました。
(不思議なことにその後に新生児室で再開した時は通常のサイズになっていて、今でも我が家の七不思議の一つとして面白おかしく語られている)。
よくよく考えたら出産日よりももっと前からの記憶を思い出して、僕はこの写真を見ている。
僕たち夫婦にとってはようやくと子宝に恵まれた子で、妻が妊娠してからも切迫流産の可能性がありしばらく絶対安静で寝ていたという危機もあった。
それを乗り越えてこの世に出てきたから、僕と妻は「奇跡の子」と呼んでいる。
それが出産当日にまで帝王切開への急遽切り替えがあって、最後までハラハラドキドキで、待合室に連れてこられた時は信じてたけどもう幸運に感謝するしかありませんでした。
息子が生まれて初めて写真に収まった一枚には僕のそんな思いが詰まっています。
写っている赤ちゃんだけでなく、それまでの思い出も一緒に見ているのです。
その思い出がかけがえのないものだから、僕にとって一番好きな写真でもあるのだと思います。
もう一度、先ほどの気になる会話を。
====
妻に「僕は息子の写真の中でこれが一番好きなんだけど」と聞いてみると、「えっそう?ガッツ石松みたいじゃん、他に可愛いのいっぱいあるよ」という答えが返ってくる。
====
この答えに対して、僕が「いかにも生まれたてって感じで可愛いじゃん。待合室での写真撮り忘れちゃったから、パパにとってはこの写真が一番の思い出なんだよ。妻ちゃんは出産の時で一番思い出に残ってることってある?」と聞いてみると……。
「けいちゃんが出てきてすぐにお医者さんが持ち上げて見せてくれた時かな」と妻。
なるほど、なるほどです。参りました。
妊娠、出産で僕よりも何万倍大変だった妻はやっぱり違う光景を知っていました。
でもガッツ石松にはどうやっても見えないんだけど(笑)?