高校卒業後、進学で上京するまで岩手県沿岸南部地域で生まれ育ちました。
実家から海までの距離は約700m弱。晴れた日には、物干し台で洗濯物を干していると、岸壁に碇泊する大型船がよく見えたものです。
東日本大震災。
家族や親戚は奇跡的に無事でしたが、実家の建物は津波で全壊し、多くの友人・知人が被災しました。
震災当時、息子たちは3歳3ヶ月と1歳5ヶ月。長男が言葉をやっとなんとなく理解し始め、次男は卒乳もまだ&おむつ、という時期でした。
被災した両親のことは毎日毎日気にかけていましたが、自分自身が子育ての大渦中。
やっとのことで両親の顔を見に行けたのは被災から1ヵ月半ほどたった4月下旬でした。
東北道にはまだ凸凹が残り、SAの駐車場には普段見たこともない珍しい自衛隊車両がズラリ。
瓦礫が残るという現地に、当然子どもたちは連れてゆけません。
そもそも義父母に子どもたちを預けて自分と夫が長時間留守にすることさえ、子どもが生まれてから初めてのことでした。
子どもたちに泣き叫ばれないよう、前夜から義実家に泊まり、子どもたちが寝ている早朝にソロリと蒲団から抜け出して東北道にのりました。
子どもたちを連れての帰省は、さらにそこから数ヵ月後、お盆でした。
故郷が被災地になったとき、小さい子を連れて帰省するのってどうなんだろう
3,595 View2018年は日本全域で多くの自然災害に見舞われた年となりました。離れた場所で暮らしていて直接、被災はしていなくとも、自分自身やパートナーの故郷が被災された方も多いのではないでしょうか。そんな場合、帰省はどうされてますか? 子どもたちにはどんな風につたえていますか? 3.11東日本大震災の被災地を故郷に持つ我が家の話をさせていただきます。
震災当時は1歳と3歳児の育児中。すぐに駆けつけることもままならず
「お盆に連れて帰るよ」のあとの小さい沈黙
親戚の家の敷地内にある離れに仮住まいを設けることができた両親。
電話ではいつも元気そうに振る舞っていましたが、「お盆に子どもたちを連れて帰るよ」と言った後、ちょっと言葉に詰まって一瞬無言になったのを今でも覚えています。
「……びっくりするんじゃない?」(母)
「まだあんまりよく分からないと思うよ〜」(私)
当時、テレビでは災害の様子をひっきりなしに報道していましたが、3歳と1歳の幼児にはチンプンカンプンだろうと思っていましたし、それよりかわいい孫の姿を見て両親が少しでも心休まる時間を持てるならそのほうが絶対いいだろうと思っていました。
今、思い出してもあれはなんだったんだろう? という不思議なこともありました。
初めて子どもたちを連れて帰省したとき、あともう少しで地元の海が見える、という地点の車内で急に長男が高熱を出しました。
チャイルドシートの中で真っ赤な顔をしているのでヘンだな、と思い熱を計ったら38.0度超え。
びっくりして車内から母に電話し、受診できる小児科を確認してもらったのですが、両親の元につくと熱はサッとひき、何事もなかったように普段の姿に戻りました。
「優しいから、ちっちゃい身体で何かいっぱい感じたのかな?」(母)
ちょっと神経が細かくて過敏なところがある長男。
長時間の車移動で身体に熱がこもったとか、何か物理的な理由があったのかもしれません。
でもあの頃の東北には何か言葉では説明できないことがいっぱいあったように思います。
あまりネガティブには捉えていませんが、「あの熱、何だったんだろう?」と今でも思い出すことが。
一瞬で熱の下がった長男は、持ち前のやんちゃさを発揮し、ゴーカイレッド(当時の戦隊ヒーロー)の「派手にやるぜ!」よろしくじぃじをこてんぱんにやっつけたり、公園に設置された仮設住宅のまったく知らない方のお宅に入ろうとしてヒヤヒヤさせるなど、父に「孫からも被災した!!(笑)」と言われるほど。
でも何だかうれしそうにしていました。
豪快なおばちゃんたちと入った大きいお風呂と高知県警のお巡りさん
その後もお正月、春休み…と長期休暇のある度に、実家へ帰省しました。
親戚の離れにはお風呂がなかったので、よく市で運営している公共浴場にいき、子どもたちも「大きいお風呂」と喜んでくれました。
お風呂に来ているのは家が流された方が多く、湯船の中でどこかのおばちゃん同士が「お宅はどこ?」「今は太平洋のあたりかな?」…などという、被災者本人じゃないと絶対言えないギャグで大笑いすることもありました。
そんな話の横を次男がダッシュして転べば「あらら、ちっちゃい余震きたな!」といってまたひと笑い。
関西に負けず劣らず、笑いが大好きな東北の人々です。
チャイルドシート装着違反を高知県警に呼び止められたこともありました。
父の運転する車には、チャイルドシートが1つしかなく、ほんの数100mの距離なのに歩くには少し遠いから…と次男を私の膝にのせて走っていたのでした。
当時は自衛隊の他、警察官や警察車両、救急車両も全国各地から集まり治安やライフラインをフォローしてくれていたのです。
他県ナンバーの車両を見るたび、その都道府県の友人を思い出したりして心の中で感謝していた記憶があります。
「短い距離でもチャイルドシートなかったらだめだよー」と、土佐弁訛りのお巡りさんに優しく注意されました。
働く車関係に興味津々の時期だった次男は、パトカーを近くで見たくてキョロキョロ。
それに気づいた高知県警のお巡りさんは「ほらもっとよく見てみ」といってニコニコと次男を抱き上げ、中を覗き込ませてくれました。
子どもたちと被災地に帰省した8年間
3歳と1歳だった子どもたちの成長とリンクするように、少しづつ復興していく街の様子。
帰省の度に新しい道路や建物が増えていきます。
「地震ってなんで起こるの?」
「津波と地震はどう関係しているの?」
前回の帰省で聞かなかったことを、次回には質問するようになります。
そして、あの日あのとき大変なことがこの街に起こったのだ、ということを年を追うごとに少しずる理解するようになっているように思えます。
「高知県警てさ、坂本龍馬の土佐でしょ?」
1歳と3歳の頃には知らなかった坂本龍馬の出身地。
いかに遠くの場所から東北を助けに来てくれていたか、9歳と11歳になった今の息子たちなら分かるようになりました。
そして、ボランティアとは何か、本当の復興とは何か、と話もするようになりました。
被災地には様々な困難があり一様ではありません。
そして私や息子たちが体験したことが、すべての被災地やすべての間接被災者に当てはまるものでもありません。
私は段階的に被災地を子どもたちに見せてきました。
被災地であると同時に私の故郷でもあるからです。
傷ついていても自分の故郷だからです。
被災した故郷と子どもたちの間にどういう関係性を作るかには正解も間違いもないのではないか。
これが2019年段階での、私からの経過報告になります。
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