私が4歳の時、弟が生まれました。
親から言い聞かされていたこともあり、子どもながらに「お姉ちゃんとしてしっかりしなきゃ」と思っていました。
しかし、同時に「お父さんやお母さんをとられた」と心の中では寂しがっていた私。
そんな私の複雑な気持ちを察してくれたのが同居していた祖母でした。
お茶とお花の師範である祖母は、ひと言でいうと「凛とした女性」。
いつも背筋を伸ばして姿勢が良く、自分の意見をハッキリ持っていました。
自分にとても厳しい分、家族の生活態度や礼儀作法にも厳しい人でしたが、私にとっては「優しいおばあちゃん」でした。
父の仕事は忙しく、母は赤ん坊の世話にかかりきり。
私が一人ぼっちになりそうなときは、いつも公園に連れ出してくれました。
体調を崩した時の病院の付き添いは、いつも祖母。
みんなで遊びに出かけた時は、真っ先に私の手をつないでくれました。
また、祖母は私に、本を読む楽しみを教えてくれました。
バスで15分かかる市立図書館で本をたくさん借りてきてくれた祖母。
実家は高台にあり、バス停からも坂道が続きます。
その道中、たくさんの本を抱えて帰ってくるのは重くて大変だったと思います。
祖母は私のために、惜しみなく時間と労力を割いてくれました。
私と祖母は、いつも一緒。
昔の写真を見返すと、祖母と一緒の私はいつも笑顔でした。
やがて中学生にもなると、友人関係や外見を着飾ることが一番の関心事になりました。
女友達とおそろいの可愛い小物や洋服などに夢中になっていた私。
小学校までは本の虫でしたが、読書する時間も次第に減っていきました。
ちょうど反抗期も重なり、何かと注意をしてくる親と険悪な雰囲気になることもあり、家族との会話自体が減っていた頃。
たまたま祖母と2人きりになったタイミングで、こう言われました。
「 本を読んで勉強しなさい。自分の頭の中にある知識や経験は誰にも奪われないから。 」
その頃の私は「わかった」と答えはしましたが、「もっと学校の勉強をしなさい」と言われた気がして反発を覚えました。
よくある友人同士のイザコザやテスト勉強。そして親とのちょっとした衝突…
そうしたことで、この時期の私はいっぱいいっぱいでした。
祖母の言葉の本当の意味を理解できず、「私だってちゃんと考えてるし、色々忙しいのよ」と、生意気にも思っていました。
この頃、祖母は60代。
少し耳が遠くなったり、動作がゆっくりになってきたりと「老い」を感じさせるように。
そんなこともあり、「言うことが古臭いなぁ」とさえ思っていた私。
その後、その言葉について祖母と話すことは二度とありませんでした。
大学卒業後、私は家を出て県外に就職しました。
日が変わるほどの残業や、休日出勤が当たり前の環境で大変ではありましたが、充実した日々。
実家に帰るのは年数回で、祖母とは夕飯の時に顔を合わせるくらい。
2人きりで過ごすことはありませんでした。
その頃の祖母はさらに耳が遠くなり、会話が成立しないことも。
それもあって、余計に話す機会が減っていました。
やがて責任ある役職に就き、部下もできた20代後半。
仕事でトラブルが起こりました。
部下のミスでお客様にご迷惑をおかけし、クレームに。
担当者として部下が対応していましたがうまくいかず、私が直属の上司としてお客様にお会いすることになりました。
しかし私もお客様に納得していただけるような対応ができず、「もう今後は契約しません」と言われてしまい…。
結局、さらに上の上司に対応してもらい、なんとか解決。自分の力不足を痛感しました。
もやもやした気持ちのまま帰宅し、ドアを閉めたその時。
突然、例の祖母の言葉が心に浮かびました。
「 本を読んで勉強しなさい。自分の頭の中にある知識や経験は誰にも奪われないから。 」
それまで一度も思い出すことの無かったその言葉。
でも、心の奥底にしっかりと残っていたのです。
中堅社員のポジションになった私は、仕事でワンランク上の対応を求められることが増えていました。
それに伴い、自分の至らなさを感じる問題に何度も直面。
私に足りないのは、付け焼き刃のスキルではなく、「知識」と「経験」だ…。
その時の自分には、祖母の言葉は、ものすごく重みがありました。
「今度、実家に帰ったら、祖母とあの言葉の意味について話がしたい。」
「ようやく分かったよ!」
と言いたい。
そう思っていた矢先。
祖母が亡くなったという連絡が入りました。
80代を迎え、少し認知症の症状が現れていた祖母。
最後に実家に帰省した時も少し挨拶をしたくらいで、会話は弾みませんでした。
「もっと早くあの言葉を思い出していたら、感謝の気持ちを伝えられたのに」
受話器から聞こえてくる父の沈んだ声を聞きながら、呼吸が浅くなるのを感じました。
蒸し暑い8月の夜のことでした。
祖母は、優しさと強さを併せ持った女性でした。
子どもや孫にたくさんの愛情を注ぎながらも、強いリーダーシップで家族を引っ張ってくれました。
幼いころに戦争を体験し、苦労をしてきた祖母。
食べ物や着るものにも事欠いた祖母からすると、外見やその場限りの人付き合いにお金をかける私の振る舞いは、さぞかしもどかしかった事でしょう。
戦時中で物資がなく、生きていくためには自分自身の素養が試されるというような状況だった祖母は、身一つで生きていくために何が大切なのか。
常に考えながら生きてきたのだと思います。
そして、それを孫の私に伝えたかったのだと、今ならわかります。
自分を取り巻く環境や、考え方によって「言葉の受け取り方」はずいぶんと変わります。
思春期の私には届かなかった言葉の意味。
でも、一番必要な時に、10年以上経って私の胸に届いたのです。
きっと一生忘れることはないこの言葉。
しばらくは、祖母に「大切なことを教えてくれてありがとう」と、お礼が言えなかったことを悔やんでいました。
ですが今は、その言葉を今後の人生に活かしていくことが、私にできることだと思っています。
「もっと勉強して自分だけの知識や経験を増やそう。それは必ず自分の力になる。」
これが、私の人生に対するスタンスになりました。
30代半ばになっても、自分の力不足や浅はかさを嘆きたくなる場面は多いです。
周囲と比べて、「どうしてもっと勉強してこなかったのだろう」とふがいなさを感じたり、「どうしてあのように結果が出せるのだろう」と妬ましくなったり。
そんな時は一度立ち止まり、祖母の言葉を思い出すようにしています。
「このモヤモヤした気持ちも、ひとつの経験だ。」と、だんだん前向きになれるからです。
いつか自分も、祖母のような優しさと強さを持った女性になれたらと思います。
そして、私にできることがもうひとつ。
それはこの言葉を2人の子どもたちに受け継いでいくことです。
きっとうるさがられるでしょうけれど、折に触れ伝えていきたいと思っています。
私のように、いつかその言葉の本当の意味を分かる日が来ると信じて。