その日はなんだかとても疲れていて、お昼ごはんの支度が、うんと遅くなってしまった。
子どもたちもお腹を空かせているし、もたもたしている場合ではないのだけど、疲れているときって、頭もなんだかうまく働かない。
頭がぼうっとして、献立がなかなか決まらないのだ。
頭の中は、クモの巣がかかったようにぼんやりとしていて、身体も鉛のように重たくて、野菜室を開けても、チルド室を開けても、なにをつくればいいのか、思いつかなかった。
とりあえず、なにかタンパク質があれば、と思い、たまごのパックを取り出した。
すると、まずは末っ子、「ちょんちょんぱん、やる!!!」
来るよね。来る。卵が割りたいお年頃、2歳。
なんなのこの通過儀礼。
「いっこちょーだい」
左手をほっぺたに添えて、右手を差し出す。
え……なに……そのかわいいポーズ。
これを見て渡さないとかある?ないよね(即答)。
押し問答したって、結局、悶着しているうちに卵が割れるか、話がこじれて修復不可能なタイムロスが生まれるかだもの、そしてこんなにかわいいんだもの。
私としては、卵を持たせる一択になる。
卵がうまく割れる確率、だいたい55%くらいか。
うまくいくほうに期待を全寄せして、いざ、ちょんちょんぱん。
「ちょーんちょーん、ちょーんちょーん…」
卵はあっけなく、フローリングと末っ子の足に流れ落ちた。
末っ子をお風呂で軽く清めて、タオルで拭いて、床の掃除をして、昼食づくりを再開する。
生き残った卵を、なんだかすっかり血迷って、8個も鍋に入れて、ゆで卵をつくることにした。
普段なら、茹で時間がもどかしいから、絶対にゆで卵なんてつくらないのだけど、なにを思ったのか、その日は茹でることしか考えられなかったのだ。
疲れているとき、そういうことってあるよね。
あるって言って。
そういえばついさっき、お昼の料理番組で、芋餅をつくっていたぞ、と思い出した。
「じゃが芋をすり下ろして、焼けばいいのです。とても簡単。」
そう、テレビの中の女性が言っていた。
ならば便乗しよう。
私もそれをつくる。
よし、そうめんにゆで卵ときゅうりを乗せて、あとは芋餅でフィニッシュだ。
そう思うと、がぜんやる気が出た。
芋を擦るのだ。
じゃが芋を剥いて、いざ擦り始めると、今度は長男がやってきた。
「それやりたーい!!」
お、おう。そうなるよね。
じゃあ、やってみようか……うん。
さすがそこは5歳。まあまあ、上手。
そうそう、その調子、とお任せしていたら、また現れる末っ子。
「末っ子ちゃんもやるー」
うん。もう、ほとんど自然の摂理だから、抗う気もないよ。
長男と末っ子に、それぞれおろし器を持たせて、上手上手とおだてて褒めて、お昼ごはんが遠すぎて、目がかすみそうになっていたら、末っ子がボウルをひっくり返した。
どろどろの芋が、末っ子の足に流れ落ちる。
隣にいた長男も飛び火を受けて、芋を浴びてしまった。
速やかにもう一度お風呂に運ばれる末っ子。そして長男。
2人そろうと水遊びになるのはもはや必然だから、もうそのまま、お風呂場にいたらいいんじゃないかな、というわけで楽しそうな声をバックミュージックにして、その隙にお昼ごはん支度のピッチを上げる。
その前に、床をもう一度お掃除。
いったい1日に何回、床を拭くのか。
ゆで卵の粗熱が取れた頃を見計らって、長女に「卵の皮を剥いてほしいの」と、お願いした。
「わーい!卵の殻剥くの大好き!」
よかったよかった。
もう7歳だしね、うんとお姉さんだしね、ありがたくお任せしてしまおう、とキッチンに向きなおったら、背後から長女が悲鳴をあげた。
振り返るとそこには、顔面に卵を浴びている長女。
私の理解の範疇は、スプーン1杯くらいしかないのかもしれない。
つまり理解ができなかった。
「卵を割ったら、ぶちゅって出たの」
ああ、つまり茹で時間を見誤ったのね、慣れないことはしちゃだめだな、とうなだれて、長女にシャワーを浴びておいで、と提案した。
入れ違いで、長男と末っ子がお風呂場から帰ってきた。
「ゆで卵の皮!!!むきたい!!」
元気だネ!長男!!
でも、こればっかりは、自然の摂理とか、呑気なことを言ってる場合ではない。
これ以上の湯浴びコースは避けたいんだもの。
この卵は今、とても危険だから、爆発するからおよしなさいね、と一生懸命説得をして、どうにかお引き取り頂く。
どう剥いても、もろもろの白身が崩れるし、黄身に関してはどろんどろんだしで、散々手こずって、可食部はうんと少なくなった。
8個もあったはずの卵は、寄せ集めても、信じられないくらいに少量だった。
それでもどうにか、そうめんの上にそれを乗せて、焼きあがった芋餅を添えて、お昼ごはんにした。
子どもたちが、ようやく食事にありついたのは、もう14時を迎えようとしているところだった。
ひと安心して、トイレに立ったついでに、そうだ、お風呂場の窓を開けておこう、と主婦らしく閃いて、一歩浴室に足を踏み入れたら、違和感がすごい。
シトラスの香りが、異常に充満していた。
そこは、世にも恐ろしい、床一面がトリートメントにまみれた世界だった。
白い床に白いトリートメントが、コーティングされていた。
いったんドアを閉めて、心を鎮める。
これは誇張でもなんでもなくて、私、35歳にして、産まれて初めて、膝から崩れ落ちる、という経験をした。
お風呂場の出口に置いてある、珪藻土のマットにゴツンと両ひざをぶつけて、今世紀最大のため息が出た。
さっきまでシャワーを浴びていた長女に訊ねると、「うん、床がぬるぬるした」とのことだった。
長男と末っ子に、「あれだけトリートメントで遊んじゃダメって言ったでしょ」と、よその人が聞いたら、なんのこっちゃなセリフを半べそで、3回ぐらい言って、あとはただ、黙々とお風呂場を掃除した。
床もお風呂もとびきり綺麗になったし、レパートリーにあたらしく芋餅が増えたし、子どもたちは大喜びで食べてくれたし、よかったことだけを超、超、至近距離でフォーカスしたから、最高にいい日だった。よ。