もう、どこもかしこも、どんぐりだ。
秋がやってきたのである。
園のお迎えに行って、子どもたちが小さなビニール袋を片手に持っているのを見ると、ああ、秋が来たのだな、と思う。
我が家の子どもたちが通う園には、園庭の端に大きな森があって、園児たちは自由に行き来することができる。
もちろんその森には、どんぐりの木がある。
秋の始まり、まだ青いどんぐりがちらほら落ち始めると、子どもたちは嬉々としてそれを拾う。その様子は見ずとも分かる。
袋の中を見れば、懸命に拾い集めたのであろう感触が、はっきりと残っている。
秋も盛りの頃ならば、決して見向きもしないはずの、ちんけなどんぐりが寄せ集められているのだ。
つやつやでぷくぷくに肥ったどんぐりではなく、まだ小さくて、しかも少し薄汚れた薄緑のどんぐりを、大切そうに持って帰ってくる。
やっと見つけたどんぐりなのだろう、と思うと愛しさがこみ上げる。
と、そんな悠長なことを言っていられるのは、長くても最初の三日くらいだ。
秋が深まるにしたがって、どんぐりは我が家を侵食し始める。
今年は末っ子も幼稚園に通い始めたばっかりに、どんぐりの取れ高は昨年の三倍と予想される。
震える。
またご丁寧なことに秋が深まると、園の方でも、先生が牛乳パックで手作りした「どんぐりバッグ」なるものを用意してくれるのだ。
各々、側面に好みのシールやら画用紙を貼って、デコレーションし、それを片手に、園庭の森へ行くのだ。つまり、どんぐりを拾いに。
どんぐりバッグは毎日持ち帰られる。
帰宅して、空にしたら、また翌日持たせるのだ。そして、満杯になったどんぐりバッグがまた、やってくる。どんぐりが果てるまで毎日続くのだ。
子どもたちが持ち帰ったどんぐりは、ほんとうにかわいい。
まだ二歳の末っ子が拾うどんぐりは、とりあえずどんぐり、という感じ。きれいだろうが汚かろうが、青かろうが、茶色かろうが、何でもいいよう。
真ん中長男は、帽子付きが好みのよう。帽子がついていたり、枝がついたままのどんぐりを大切そうに見せてくれる。
長女は、小学生だけれど、なんの因果か、彼女の通う小学校にもどんぐり林がある。彼女の拾うどんぐりは、美しさが肝となる。色よし艶よし形よし、のべっぴんどんぐりが集められる。
それぞれの個性が垣間見えるので、子どもたちの拾ってきたどんぐりは、彼らそのものがよく出ていて、とても愛らしい。
が、やはり毎日ともなると、こちらの処理が追い付かない。
しかも地雷のように、どんぐりがあちらこちらから、飛び出してくる。
車のシートの下を覗けば、どんぐり。
水筒をカバーから出せば、一緒にどんぐり。
ポケットからも、もちろんどんぐり。
スモックからも、当然どんぐり。
洗濯機の中からもどんぐり。
洗濯機の下を覗けばどんぐり。
書きだしたらきりがないほど、あっちもこっちもどんぐりだ。
もうどんぐりが、ゲシュタルト崩壊している。
拾ってきたどんぐりは煮沸するのが一般的かと思う。さもなくばどんぐりの中に住んでいる、いわゆるどんぐり虫が、ひょこり出てきてしまうのだ。いやだ。いやだよね。
だから、以前、煮沸をしたことがあったのだけれど、念入りに数日かけて乾かしたにもかかわらず、そのどんぐりたちからカビが生えたのだ。衝撃だった。以来、我が家では煮沸も却下されてしまい、つまり、残されたどんぐりの行く末は、廃棄のみ、となる。
つい先ほど、どんぐりが子どもたちそのもののようで愛らしい、とか美しいことを書いておきながら申し上げるのが大変恐縮なのだけれど、捨てる以外の道が残されていないのだ。
もちろん、子どもたちの目の前で捨てるような、殺生なことはできない。
キラキラに目を輝かせて拾った姿が容易に浮かぶというのに、彼ら自身が投影されたかのような、個性あふれるどんぐりだというのに、目の前で捨てるなんてできやしない。
だから、なるべく子どもたちの目を盗んで、かつ、なるべく速やかに捨てるように心がけているのだけれど、どうしてなかなかうまくいかない。
三人それぞれ、常に私の半径50㎝くらいのところをうろついているから、捨てるチャンスがなかなか訪れない。
さらに言えば、私は気が小さいので、もしまだ今日のどんぐりに関心が向いていて、「ママー!持って帰ったどんぐりどこ?!帽子がついたやつ見せてあげる!!!」と言われるのでは、と想像するとひるんでしまう。
ゴミ箱から取り出す姿を見られるわけにはいかない。
そして、ついつい、適当なビニール袋にいったん入れて、様子を見てしまうこと数日。
そして、忘れた頃に捨てるのだけれど、その頃には数日分ものどんぐりが溜まっているのだ。
去年だったか、長女が虫かごすりきれ一杯分のどんぐりを、拾ってきたことがあった。ちょっと常軌を逸していた。
が、私の憂鬱に反して、長女はやはりとても満足そうで、虫かごごと、このまま大切に置いておくのだと言った。
テラスには長いこと、どんぐり入りの虫かごが置かれていた。
もはやテラスの一部のようになったどんぐりを、どうしたものか散々頭を悩ませた後、そうだ、庭に捨てればいいのだ、と閃いた。
ごみ箱に捨てるのは子どもの胸を痛めるけれど、庭にばらまくのであればなんていうか、大地にお帰り感があって、長女も納得するのでは、と思ったのだ。
幸い我が家は、はっきりとした田舎の僻地だから、庭だけは十分に広い。
その上、野っ原みたいな庭なので、どんぐりがうん百個くらい落ちていたって、どうということもない。
これには長女も合点して、みんなでどんぐりを庭に撒いた。
ああ、よかった。
と思っていられたのはほんの一時だけだった。
その翌年の春、庭の隅で、春の訪れとともに芽吹くものがあった。
大量のどんぐりだった。
勝手に枯葉たちのように分解されて、大地に還ってゆくであろう、と期待していたのに、たくさんのどんぐりたちが、根を張り、小さな枝を伸ばしていた。
一刻も早く、このどんぐりを抜かねばならないことくらい、分かっている。
分かっているのだけれど、娘が拾って、捨てたはずのどんぐりが、脈々と生を繋いでいることに妙な感動を覚えてしまって、つまり、抜くに抜けないのだ。このままではいけないと分かってはいるのだけど。
そして、今年これからどんどんやってくるであろうどんぐりの、解決方法も何ひとつ、見つかっていないのだけれど。
罪なことにどんぐりって、やっぱりどうにもかわいいのだ。
もう、リスを飼う、くらいしか思いつかない。