妊娠34週目、11月に入ってすぐ。
すっちー先生から提案があり、今後次女の出産と育児に関わる人間全員でのカンファレンス(会議)があった。
兎に角、このお産に関わる私達サイドの人間をできるだけ呼んでほしいと。
ザ・清州会議 イン 産科病棟
ここ大阪やけど。
この会議の首座である、すっちー先生曰く
「生まれてから、この子の育児に関わる人、出来るだけ全員に、赤ちゃんの今の状態と、今後の予定を話しておきたい。」
「カンファレンスの後で、産科のナースと、あとNICUのナースにも会わせるから。」
ということだった。
特に次女が出生後入院先となるNICUは、入ったことも見たこともないやろ?知っておくだけでも、と。
この時、丁度テレビでは周産期医療ドラマ『コウノドリ』の1期が放映されていた。
何しろ内容がタイムリー過ぎて、私はあまり見られなかったが、確かにNICUと言えば、大森南朋で坂口健太郎ですね、くらいの知識しか無かった。
カンファレンス当日には次女誕生の後、八面六臂の活躍を果たす実家の母も特急と新幹線をに乗りつぎ、5時間をかけて駆けつけてくれた。
母はこの会議の1ヶ月前に初めて、まだ見ぬ孫が病気を背負って生まれてくると聞かされ、心配でいてもたってもいられなかったのだという。
母とは、祖母とは、ありがたいものだ。
すっちー先生と新生児科医のコロボックル先生、もといM先生が次女の心臓の状態、そして出生後の治療の予定を説明する間、母はひたすら
「それは大丈夫なんですか?」
「生きてうまれてくれますか?」
と聞いていた。
あの説明を聞けば誰でも不安になるに違いない。
母の顔はなかなか蒼白だった。
私は私で、この日、結構な数の産科とNICUの看護師さん、助産師さんに対面し、ひたすらにたくさんの聞き取りをされた。
・家族構成
・育児、看護に関わる身内
・その中のキーパーソンたり得る人
・お産において心配だと思っている事
・産後心配な事
などを。
特に「身内」については、夫の両親兄弟、私の両親兄弟、近くの親戚にまで聞き取りが及んだ。
これは勿論、疾患児を育てるには、産後とにかく兎に角人手がいるという事だ。
加えて、その日のうちにカンファレンスの様子をいち早く教えろと、実家で報告電話を待っていた看護師の姉に言わせると
「治療途中、特に命にかかわるフェーズで、口を挟んでくる面倒な身内がいないか洗い出す意味もある。」
との事だった。
火曜サスペンス病院劇場。
この日、私と母と夫が対面した、医師、看護師、助産師の人数は正確に把握できない程だった。
他にも顔は見なくとも、医療コーディネーター、地域提携部看護師などの名前の紹介があり、今回のこの次女のお産とその後の治療に関わるスタッフが、病院の中だけでもかなりの人数になるという事を実感させられた。
この頃の私は、定期健診で何度エコーに映る次女の心臓をのぞき込んでも、次女のメインの疾患である『単心室』の事実が変わらない事に慣れてきてしまっていて。
というより、お腹の子が病気で、これから何が起こるのかという心配の材料が何を見ても多すぎて、もう何も考えないようにしていた。
あの心臓疾患が発覚した8月に、賽(さい)は投げられてしまっているのだ。
あとは産む日を待つしかない。
それでも、このカンファレンスでこれだけ大勢のスタッフを目の前にすると『疾患児を産むという事は、こういう事なんだなあ』と、改めて、なんだか怖いような途方に暮れるような気持ちになった。
しかし同時に、じきにやってくる次女の出産にこれだけの人が力を貸してくれるのだと思うと、少し勇気づけられもした。
39週と0日目。
この日の検診はいつもすっちー先生ではなく、とても綺麗な女医先生が診察室に座っていた。
すっちー先生は急用だと言う。
お産かな。
この頃、診察ではもう名物と化していた、胎児エコーでの次女と先生の「心臓その他内臓を見せろ・見せない」という龍虎の戦いは、既に正生期産に突入し、次女の身体が週数相当に大きくなったが為に
「もうあんまり見えないな~あとは生まれてからやね。」
と引き分けの様相だった。
そのため、この日の診察はひたすら
「いつ生まれると思いますか?」
という話題に終始していた。
この時は39週目なので、お産としては、特に早くも遅くもない。
が、これまで私は長男も長女も共に正期産に入ってすぐの37週で産んでいて、39週までお産を持ち越す事は、全く予想外の事態だった。
何しろ予定日通りに産まれると、長女の幼稚園の『イエス様の誕生劇』の当日に被ってしまう。
それはちょっと困るので、ここはひとつ、そろそろ生まれてくれませんか?と内心思っていた。
親、超勝手。
そんな大変身勝手な私の内診をしていた女医先生は、カーテンの向こうで、あら大変と独りごちてこう言った。
「お母さん、もう子宮口2cm開いてるよ。」
えっ、そうですか?
生まれますかねもう?
こういう時、経産婦は無駄に肝が座っている。
でも2cmじゃあまだ生まれませんよねぇ、赤ちゃんもそこまで降りてきてないからねと言い合った。
「歩いて帰ったら、少し降りてきてくれるかもよ。」
そう女医先生が明るく言うので、そうですねと駅前で今川焼を買って食べながら、夕暮れの街中を川沿いにゆっくり歩いて、30分程の自宅に帰った。
赤ちゃんがもうすぐ産まれる。
重い疾患を持って。
楽しみなような、恐ろしいような不思議な気持ちだったが、それよりも奮い立つような気持が更に大きな分量で頭の中を覆っていた。
多分それは『お腹の子を無事に産んであげるんだ』という気持ちだったと思う。
帰宅して、長男と長女に
「なんかもう生まれるかもしれないって先生が言ってたよ!」
と告げると、喜んだ長女はお腹にむかって
「おーい、出ておいでー!」
嬉しそうに話しかけたが、今ここで出てこられても困る。
息子は、その時たまたま自宅に届いたばかりだった、空気清浄機の大きな段ボール箱に入って遊んでいたのを
「動物はこういう暗い場所で赤ちゃんを産むんやで!」
と言って、自分が今まで詰まっていたダンボール箱を勧めてくれた。
ありがとう、いらない。
子宮口が2cm開いていたからと言って、そのまま数日間経過した人の話も聞いたことがあるし、大体長男だって微弱陣痛で陣発から3日かかって生まれた子だ。
長女は陣痛から3時間のスピード出産だったけど。
今度はいったい、どう出るんだろう。