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公開 2020年02月12日  

ワンオペとか、孤育とか、全部解決したいから、もうみんなで育てたいんだ。

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「閉鎖」がいちばん子育ての難易度を、爆上げしてると思ってる。


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週末、お友達がたくさん遊びに来てくれた。

我が家だけでも3人いるうえに、仲良しのお友達は、そろいもそろって3人姉弟が多く、この日曜日は子どもだけで9人にもなった。

9人揃うと、それはもう、かしましい。

あっちで誰かが泣いたかと思えば、こっちで誰かが泣いている。

誰かが机の角でおでこをぶつけたかと思えば、今度はお庭で誰かがひっくり返っている。

ダイニングテーブルを子どもが9人、大人が3人でぎゅうぎゅうに囲んで、騒がしくごはんを食べた。

誰かがこぼしたり、席を立ったり、そっちが食べたいとかこっちがいいとか、そんなことを言いながら、みんなで持ち寄ったごはんを食べた。



お天気のいい日で、お外でたくさん遊んで、おやつを食べて、さぁ帰ろうか、となったときにみんなが口々に「イヤだ!帰りたくない!!」と叫んだ。

もちろん想定内。みんなで遊んだあとのお帰りは、いつもこうだ。

それだけ楽しい一日だったということだから、困ったなぁ、と顔はしっかり困り顔で応戦するけれど、嬉しくもある。

うんうん、そうだね、またみんなで遊ぼうね、とたしなめていたら、ひとりの男の子が「帰らない!!ここに住みたい!!」と叫んだ。

そして、その子のママが被せ気味に「ママだってそう思ってるよ!!」と言い放った。


このやりとりがあまりに鮮やかで、思わず笑ってしまったのだ。

人は、これ以上ない最適解に出合ったときに、思わず笑いがこぼれるらしい。



ほんとに、その通りだと思ったのだ。

みんなでここに住んだらいい、と、すとんと私の中に金言が降ってきたような心地だった。


一時期に比べて、私の子育てはほんの少しだけれど、楽になった部分がある。

私自身の慣れもあるかもしれないし、子どもたちの成長ももちろんあるだろう。

もしかしたら、こういうものだという諦めも、手伝っていたのかもしれない。

「みんなで暮らしたい」

私もずっとそう思っていた、ということを、彼女のひと言で思い出したのだ。

「ママだってそう思ってるよ!!」

そう言ったった彼女は、今、ご主人が単身赴任で他県にいる。

それも、陸路が繋がっていない場所だから、会えるのはよくて1ヶ月に1回くらい。

未就園児を含む3人の子育てを、ひとりでこなすのは簡単ではない。

タスクをひとりで背負うこともそうだけれど、その日々のいいことも悪いことも、一緒にそばで感じてくれる人がいない心細さは、華奢な背中に背負いきれない。

行き詰まった日も、泣きたい日も、自身の体調が悪い日も、子どもが熱を出した日も、すべてひとりで飲み込む苦しさを、私はどれだけ理解してあげられるだろう。



かつて、夫が今よりうんと激務で、まだ長女も未就園児だった頃、ひとりで3歳と1歳をみる生活をしていた。

あっちでお漏らし、こっちでおむつ、あっちでイヤイヤ、こっちで寝愚図り、あははうふふの子育てから縁遠い暮らしの中で、夫は寝顔を見るだけのポジションだった。

私は自分を使い果たしていた。

授乳しながら絵本を読んでいる私の鼻水を、お願い誰か拭いてくれ、そんな毎日だった。


あの頃、同じように子育てに奮闘しているお母さんたちを、支援センターなんかで見かけるたびに「一緒に暮らしたい」と、いつも思っていた。

子どもたちには遊び相手がいるし、私には話し相手と共同作業者ができる。

しかも、お互い子育て中の身だから、言わなくても痒い所に手が届く。

うんちの匂いに瞬時に気づけるし、気づいたその瞬間におしりふきを差し出せる。

コップが傾けば液体がこぼれるのと、タオルがあちこちから飛び出すのは、ほぼ同時だ。

そういった場面での、男親の動きの鈍さを責めるつもりは毛頭ない。

現場には慣れというものがある。

漫才だって毎日やってないと下手になる、と南キャンの山ちゃんも言っていた。

けれど、同じ現場を生きるもの同士、暮らすことができたらどんなに快適だろう、と思わずにはいられなかった。

そして、この心細さから解放されたい、そう思っていた。


きっと、彼女は今もずっと渦中にいて、そんな思いを持ち続けているのだろう。



その日の夜、夫に、「こんなことがあってね、みんなで暮らせたらいいのにって思っちゃった」と話したら、夫から「いやね、ほんとにそう思うんだよ」と返ってきた。


「子どもが小さいうちは共同生活がいいと思う。そういう施設があればいいのにね。」


そうだ。そういう施設があればいい。


例えば、一番下の子が就学前であれば入居可、みたいなシステムで、子育て真っ盛りの家族が一緒に暮らせるような。

帰宅したらいつも誰かがいたり、誰かがいなかったりする。

そこにいる子と、そこにいる子が、適当に遊んだりおやつを食べて、そこにいる誰かの親が、面倒を見る。

誰かが出かけたら、またほかの誰かが子どもを見て、みんなで暮らす。

みんなで次々にお風呂に入って、どかんと盛りつけた山盛りのおかずをきゃあきゃあ喧嘩しながら食べる。

いけないことをしたら、どこの子だって関係なく、こらやめなさい!なにやってんの!と叱り飛ばす。

ごめんね、今日は仕事で遅くなるからお願いね、もあれば、今日はパパとデートだからお願いね、もある。

みんなで持ちつ持たれつ、支え合って、そしてそれを当たり前のように受け止めながら、暮らしを送ることができたら、どんなにいいだろう。

みんなが大きな家族のように、子どもたちを大きくすることができたら、それってとっても自然で幸せなことなんじゃないだろうか。

考えれば考えるほど、「みんなで暮らす」ということが、自分の中でくっきりと輪郭を帯びるようだった。

かつての村社会を取り戻すような、そんな施設があったら最高だ。

そしたら、産みたい人も育てたい人も、増えるんじゃないだろうか。

今の子育ては、なんだかあまりに孤独だ。



とりあえず、少し先に、みんなでお泊りをしようという話になった。

急に夢みたいな施設は現れないけれど、お泊り会なら今すぐにだって始められる。

こういうことが、お友達同士じゃなくても、垣根なく、困ったもの同士助け合うことができたらいい。

そういう世の中になればいい。


そしたらきっと、産むも育てるも、もっと当たり前になる気がしたりして。


※ この記事は2024年12月19日に再公開された記事です。

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