子どもが三人いて、もちろんどの子も最高にかわいいのは、大前提としてあるのだけれど、やはりどうにも末っ子というのは、かわいいのだ。
上に大きい子たちがいることで、小ささが際立つのだろうか、間もなく三歳になろうというのに依然、末っ子は「ちいさい」のだ。
長女が三歳のときなんて、下に一歳の息子がいたものだから、すっかり「おねえさん」に見えてしまっていて「ちいさい」なんて、みじんも思わなかった。
息子に関しては、そもそものつくりが全体的に大きく、新生児の頃から「ちいさい」からは程遠かった。
こと末っ子に関しては、体の華奢さや、三番目という立ち位置から、ついつい、いつまでも赤ちゃん扱いしてしまう。
ところが、末っ子がもうすぐ三歳というところに来て、はたと気がついた。
よく見るとここのところ、まぁまぁ、おねえさん感、が出てきている。
相変わらず、スペシャルかわいいのはデフォなのだけど、そこはかとなく全体の「かわいい」の分量の割合に、「おねえさん」が増している。
例えば、食事時に、私がなかなか進まないおかずを指して、「ほら、お肉も食べてね」と声をかける。
二歳初頭の頃ならば、「やだ!」が定型文。イヤイヤ期ですからね。
少し前、二歳十ヶ月頃は、「はーい」とちょっぴりいい子ぶった声。イヤイヤに少し飽きてきた様子。
さて、ここ数日はどうだろう。
「分かってるってば!今食べてるでちょ!もう言わないで!」
倍になって返ってくる。なんかこっちがひるんでしまう。
こうなるともう、赤ちゃんからは程遠い。
「ちいさい」がかすむ瞬間。
ごっこ遊びをしていても、ついこの前まで彼女は、お母さん役や先生役を率先してやっていたのに、ここ数日はどうだろう。
赤ちゃん役ばかりを、やりたがっている。
赤ちゃん役をやりたがるようになったら、もう赤ちゃんではない。
赤ちゃんは、赤ちゃん役をやったりはしない。
赤ちゃん役をやる、それすなわち、おねえさんの階段を登っていることになる。おおお。
「ちいさい」が、またほんのりとかすんでゆく。
おねえさんになるのは、彼女が生まれてから決まりきっていることだから、いっこいうにかまわないのだけど、こうなると毎日のように、生まれたあの日から、今日までの回想が止まらない。
ああ、こんなに小さかったのに、とおもむろに手を、洗面器くらいに広げてみたりする。
おっぱいを飲んで見上げた顔が、いつも悶絶するほど可愛かったな、と思ったりする。
そうそう、ズリバイの頃、紙ばっかり口に入れていたんだっけ、と捨てるはずのチラシを片手に、立ち止まったりする。
振り返るほどに、どれもこれも眩しくて仕方ない。
中でも、私がずっと忘れられないシーンがある。
あれは、一年前の春。
言葉をずいぶんと覚えた末っ子が、まだうまくまわらない舌を持て余して、話していた頃。
庭で、てんとう虫を見つけた末っ子が「おんもんもん!」と言ったのだ。
何を言っているのか、最初は分からなかったのだけど、何度も聞くうちに、彼女の指す先にあるてんとう虫が「おんもんもん」そのものであるらしいことに気がついた。
ああ!おんもんもん!そうだね、おんもんもん!おんもんもんだね!!
私が歓喜した。
「ん」しかかすっていない「おんもんもん」というワードの妙さ。
それでもなお、伝えたかった末っ子のいじらしさ。
そして、それを解読できた喜び。
すべてがごちゃ混ぜになって、なんだろう、たまらなくうれしかった。うれしくてかわいかった。
以降、末っ子は自信満々で「おんもんもん!」と発声するようになり、長女、息子、もちろん夫にも「おんもんもん」は浸透していった。
おんもんもんは、我が家できちんと共通言語となり、みんな、てんとう虫を見れば「おんもんもん!」と言っていた。
もういっそ、残りの人生において、この赤くて丸い虫は「おんもんもん」でかまわない、と本気で思った。
てんとう虫が言えなかった末っ子は、同時に「よ」の発声が、まだできなかった。
なので、例えば兄に向かって「てんとう虫がいたよ!」と伝えたいとき、「にーに!おんもんもん、あったじゅ!!」と言っていた。
「おんもんもんあったじゅ!!」である。
かわいいがすぎる。
つい先日、このフレーズがどうしても、もう一度聴きたくなって、カメラロールを血眼になって探したのだけれど、残念なことに、とうとう見つからなかった。
なぜ、あの日の私は、あの最高にかわいいフレーズを録音していなかったのか。今となっては理解ができない。
今日現在、末っ子ははっきりと「てんとう虫」と発声することができ、もちろん「よ」の音だって澱みない。
「おんもんもんって言ってみて〜」と、こちらがつまらない催促をすれば「てんとうむし」とクールに返されてしまう。
寂しさに負けて、ひとり口の中で「おんもんもん」を転がしてみても、当たり前だけれど、かわいさもなにもあったものではない。
ただ、虚しい。虚しくて恋しい。
いつだったか、末っ子のむり目の要求に対して「もう少し大きくなったらね」と、その場しのぎのごまかしをしたら、「てんとうむしって言えるようになったもん!」と泣かれたことがあった。
彼女にとっても、「てんとう虫」はひとつの大きな分岐点だったのかもしれない。
成長はこれ以上ない喜びだし、今日も元気で、ありがたいことこの上ない。
このまま、どうかすくすく大きくなってね、といつだって思っている。
思ってはいるんだけど、あの、もう二度と聞けない「おんもんもんあったじゅ!!」を思うとき、やっぱり少しさみしくもある。
一年前のあの春を取り戻せるなら、何度でも動画を撮って、未来の私にプレゼントするのに。
いつかお返事のほとんどが「はぁ?」になる日が来るかもしれない。
その日を迎えるまでに、あらんかぎりの拙さを寄せ集めておこう。
「おんもんもん」はもう届かないけれど、寝起きの「あちゃだよ(朝だよ)」はまだ間に合う。
何度でも動画に記録して、いつかの私に感謝されよう。
きっと、未来の私はそれをアラームにして、毎日朝を迎えてるから。