急に引っ越しが決まった。
3人きょうだいになった我が家はいい加減、自宅総面積に対して人間の数が多すぎやしませんかという私と子ども達の訴えがあったことと、少し人より身体が弱く生まれついた末っ子次女が、兄姉が学校からもらってくるインフルエンザその他感染症に家庭内罹患すると、もう目も当てられない、という状況にあって
「病気の子どもが隔離できる部屋を」
切望から、ごく近距離にある社宅の別棟に引っ越そうとなったのだ。
で、喜んだのもつかの間、決定事項は即実行していただきます、それが世の習い、弊社の方針。
引っ越しが決まってから、その実施の日まではそうそう猶予を貰う事が出来ない。
確かに1人の社員が何故かいつまでも2部屋を占有するのはいけない、それはわかるけど。
ただ、急ごうにも引っ越しの準備を進めているその最中、世の中は困ったことになっていた。
新型ウイルスの世界的流行。
そして突然の小学校休校。
普段から2歳の次女に翻弄されている平日の日中に、よると触ると喧嘩する長男と長女が加わり私は詰んだ。
これで引っ越しの準備なんかできるか、誰か来てくれ。
引っ越し前日、黒い衣装に身を包み、彼女達はやって来た。
数多の戦場を駆け抜けてきたであろう彼女らは言葉数は少なに、我が家のそう広くない各部屋を見回すと
「じゃ、ここから始めますから」
そう言ってエプロンを纏い、そしてダンボールを手にした。
彼女らの名は『事前梱包サービス』
人呼んで、というか私が勝手に名付けた『梱包マザーズ』
全国的な休校要請が出て、長男と長女に前倒しの春休みが訪れて終日自宅で過ごす運びとなり、引っ越し用のダンボールはもう既に2人の秘密基地、巣と化していて何処に荷物入れんねん、返してくれ梱包用のダンボール・サイズSを。
そんなダンボール王国の建国にもう無理やでこれは、と思い至ったその日。
私はすでに見積もりを終えている引っ越し業者に電話を掛けた。
色々あってもう無理お手上げです、梱包だけでもお願いできますか今からですけど、と。
そして彼女達はやって来たのだ、引っ越し前日の昼下がり。
お客様が来訪すると、人懐こい大型犬の如くワッホイ!ようこそ我が家へと歓待する次女も近づく事を憚る気魄、気合でマザーズはガンガン荷物を詰めていく
私はもっとこう
「奥さん、コレどうしますか?」
「コレは詰めますか?」
と相談しながら詰め込みをしてくれるものかと思っていたので、この無言の行に驚きそして
「もしやコレは今日のパジャマも明日の衣類も梱包されてしまうヤツなのでは」
と思ったその時すでに次女の大切にしているコアラのぬいぐるみは箱の中で、私は頭を下げてコアラ5体を助け出してもらったものだった。
そうして眼光鋭いマザーズが大体こんなもんねと梱包したダンボール総数約60箱、梱包時間約3時間。
ありがとうございます、急にねじ込んだのに本当に助かりましたと差し出した御礼とおやつに、ちょっと強面だったマザーズはニコッとして
「小さい子いて大変やね」
「ちょっと大変かもしれないけど明日頑張りや」
そう激励してくれた。
マザーズは仕事が達者で早くてそして優しく、その怒涛の勢いに私は、自分の子どもの着替えは何とか事前に救出できたが
夫のパンツを出し忘れたのだった。
なんとか迎えた引っ越し当日。
子ども3人が走り回る引っ越し現場、それは戦場。
長男は、昨日梱包マザーズから死守したゲーム機を2台、そして長女は次女の大切にしているコアラのぬいぐるみを全部抱えていた。
オイ、それは本当に引っ越しの荷物なのか、君らの本業である小学生の命ランドセルはどうした、その辺に転がすな。
次女は搬出時、作業員さんの足元をフラフラウロウロすると相当危険という事で私に背負われた、そして私は11㎏を背負い半日過ごすことになる、ちょっと死ぬかと思ったぞこれは。
「あ、コレ私の荷物―!」
「ねー、今テレビ見たらあかんの?」
前述の『命より大切なおもちゃ達』を抱えた長男長女は、そう言って作業員さんを初手から邪魔していたので、早々に
「新しい部屋に行ってなさい」
そう言って、お茶とお菓子を持たせて新居に移動させた。
次女は玄関を意気揚々、新居に向かって出ていく兄と姉を見て
「アタチモー!」
指さししながら私も連れてけと主張したが、オマエはダメだ、ママの背中に居てもらおう、普段から前方不注意、小言は一切馬耳東風な兄と姉に2歳児の子守が半日も出来る訳が無い。
引っ越しの極意、それは子どもを床の上から退かす事。
これ、新居が近いからこそできた手で、もっと引っ越し先が遠方ならこうは行かない。
作業員さんを邪魔して踏まれるか、私が邪魔だとキレ散らかして屋外に放逐するかどちらかだった、よかった近所が引っ越し先で。
しかし、途中までそこそこ順調だった引っ越しに事件は起こった。
「奥さん、この家具、解体しないと部屋から出せません」
それは2年位前に購入した大き目の箪笥というかクローゼット的な家具で、確かにコレはここで組み立てましたが出ませんか?部屋を?
「この家具について見積もりに来た営業なんも言ってなかったですか?」
「エッ?ハイ何も言ってないです、素人組み立ての家具なんで保障がつきません位しか」
思い起こせば見積もりにきてくれた営業さんは、その日たまたま家にいた次女長女がその業者さんのマスコットキャラグッズを
「可愛い~」
「カーイイ!」
ときゃあきゃあ言ったことで値引きをしてくれるというチョロ…じゃなくて気前のいい若者かと思っていたら本気の新人で、見積もりの時点でこの家具が「部屋を出ない」という事実に気が付かなかった。
そしてその持ち主の筈の私も、全然気が付いていなかった。
「営業は…森(仮名)アイツか!」
「ハイ!アイツです!」
「もうしょうがないので僕が解体してまた組み立てますけど、コレ、裏板一旦取ったらもう付けられないと思いますけど、どうします?」
箪笥に裏板が無いと扉の付いたただの枠になりはしませんかとは思ったが、解体しなくては外に出せない、そして出せないと引っ越しは終わらない、かつ携帯には暇を持て余した小学生チームからの督促電話が
そして私と夫は決断する。
「裏板壊します」
かくして、裏板は夫の手により思い切り叩き壊され、無事箪笥は解体、微妙に扉付きの枠になったソレは搬出された。
すべての家具が搬出され、ダンボールも持ち出された我が家にはホコリと、本棚のあった壁に多分、前回この部屋に越してきた当時、長男が書いたものであろう落書きが薄く残っていた。
自筆の名前だろうか、全然かけてないですけど。
入居当時、長男4歳、長女当時1歳、次女に関しては生まれていなかった。
次女はこの部屋に住んでいる間に生まれて、入院したり何かとトラブルがありながら2歳になったのだ。
引っ越しの最後、部屋を去る時は少し寂しい。
あんなに狭い、台所が使いにくい、大体この平米数で5人家族は無理だ無謀だと言い続けていた、部屋なのに。
とは言え感傷に浸る暇は無い。
徒歩数分の新居では長男長女、そして私の背中の次女も腹をすかしているし、私も夫も朝からろくに食べていなかった。
これが、夫婦2人の引っ越しだったら、夜まで何も食べずに貧血をおこしたことだろう。
意外と子ども達には助けられる。
ご飯を食べるのを忘れないとか、なぜか裏板がとれてしまって珍妙な姿になった家具の事を笑ってもらえるとか。
新しい家には子ども部屋が出来るのだ。
絶対喧嘩の種になると最後まで反対したが、この毎日寄ると触ると喧嘩している兄と妹はこれから2段ベッドで寝るらしい。
上が兄、下が妹、そして1番小さい妹はママの横。
夫も、チキン南蛮弁当を食べながら、ちょっとお家賃は上がったが、待望の子ども部屋と、少し広くなったリビングを見ながら
「がんばったらいいことあんねんなあ」
とつぶやいていた。
そう言えば、結婚してこの方、夫にはちょっと目に持病があるのだけれど病気続きで、次いで生まれた末っ子にもややこしい病気はあるわで、結構大変な思いをしながら働いてきた夫だった。
自宅を買った訳でも無いのに大げさすぎないかとは思ったが、新しい家は嬉しい。
その家賃を払えるようになったアナタもおめでとう。
まだ何もない我が家で、新しい生活が嬉しくなった。
そして
その後待っていたのは搬入された段ボール約100箱、増えてますやん、そう当日梱包がまた40箱程出たのだ、子ども3人分の荷物は伊達ではなかった。
子どものいる引っ越しでは、可及的速やかに普段の生活を取り戻す必要がある。
私は必死に2日間ぶっ通しで100箱ほとんどを自分で開封、収めるべきところに収め、しかる後、風邪をひいて寝込んだのだった。
引越し、もう向こう10年はやりたくない。