長女が大量の宿題をたずさえて、休校に入って三週間、ようやく宿題の目処がつきそうなところに、幼稚園児ふたり(5歳と3歳)の春休みがスタートした。
長女との休校期間はわりと楽しくて、おだやかな時間だったのだけど、なんといっても宿題。宿題が難儀だった。
三学期で終わらせるはずだった未完の課題が、すべて自宅学習に持ち込まれたわけだから、もうほとんどおぞましいと言っていい量だった。
プリントがぎょっとする厚みを持ち、ドリル関連に関しては、「残りぜんぶ」という塩梅。絵具と粘土を使った図工の課題もあった。
それらを親子で全うすることが、肩で息をするような大変さだった。疲れた。
ヘトヘトになったところに、生命力の塊みたいな5歳と2歳が合流するんだから、並大抵の気合じゃない。
お母さんはもうずいぶんと疲れているんだよ。
毎日元気に喧嘩もするし、元気にお腹も減る。
元気に牛乳をこぼすし、元気にお庭に大量の水を撒く。
エネルギーがこちらとしては底辺だから、白目を剥きそうになるのだけど、そんなとき、私の秘儀があるのでお知らせしたい。
私が出会った、「大海原くらいに心が広い母」を心の中に飼うのだ。
まず1人目。
高校生のときに、ホームステイをしたお宅のホストマザー。
彼女には6人のお子さんがいて、当時、上から、小6、小5、小4、小2、5歳、6ヶ月、という布陣だった。
0歳児がいて、ホストになる心の広さ、間違いなく大海原。
しかも、聞いて。さらに驚いたことに彼女の夫は日本に単身赴任中だった。
つまり、いわゆるワンオペで6人の子どもを育てていたということ。想像だけで4キロくらい痩せそう。
なんだけど、彼女はなんて言うか、いたって普通で、ずっとご機嫌で、ずっと元気だった。
今、三人の母親になって、「あ、これやべえな」と思ったときは、彼女の様子を思い出すことにしている。
まず彼女は、離乳食なんてものを完全に葬り去っていた。
そのときあるものを、赤ちゃんが嚥下できるように処理する、それが彼女の離乳食だった。
それはパンだったり、うどんだったり、そして、またあるときはファストフードのポテトでもあった。
カロリーがあって、ごっくんできる is OK、そんな感じ。
自炊は一日一食で、他はデリバリーだったり外食だったり。
その代わり、その一食(彼女の場合は朝食だった)は、あらんかぎりのエネルギーで作ったのかと思うような、彩り豊かなものだった。
その一食に、母の愛がみちみちに詰まっていた。
そして、昼間も夜も子どもたちと存分に遊んでいた。彼女も子ども達も、毎日ずっと楽しそうだった。
自分がご機嫌でいられる配分で、家事にリソースを割く。
彼女を自分の中に飼って、そんな姿勢をインストールするのだ。
そうすると、つまらない罪悪感に苛まれずに、お惣菜コーナーでたこ焼きとか唐揚げを買えるし、冷蔵庫にチンするだけの肉まんとか、冷凍庫に冷凍コロッケを忍ばせる強さも、芽生えてくる。
賢いお母さんたちはとっくのとうに、そのような暮らしをしていると思うのだけど、根が臆病なものだからつい、「すべき」に引っ張られてしまうのだ。
手作りすべき、薄味にすべき、節約するべき。お食事における、厄介な3大すべきが脳内をかすめがち。
この有事だから、積極的にあのご機嫌な彼女を召喚して、健やかな精神をキープできる家事配分を心がけている。
そして、ふたり目。
夫の母。つまり義母だ。
義母のおおらかさが、並大抵ではないの。
子どもが何かしらの液体をこぼしたって、笑顔。
子どもが何かしらの割物を割ったとしても、笑顔。
子どもが何かしらの食べ物で、彼女の服を汚しても、一瞬だって曇ることなくやっぱり、笑顔。
例えば、子どもが牛乳をこぼしたとして、「はいはーい」と、すかさずキッチンペーパーやら雑巾を、取り出すだけだ。もちろん笑顔で。
割れ物に関しては、「割れるものは、割ってみないとわからないからねぇ。ははは」と割ることにさえ、肯定的。
いや、うちの息子、もう義実家で、何個お湯呑みを割ったか、計り知れないのだけど。いつでも、失敗を認めていく姿勢。
義母の(高そうな)服に、子どもがトマトソースをべっとりつけたときも、「洗えばいいよ~」とカラカラ笑っていた。
義実家に遊びにいくたびに、義母が全方位的にしなやかすぎて、私ったら普段、なににそんなにかりかりしているのかしら…、と目が点になる。
いつもいつでも、義母のエッセンスを心に封じ込めて、おだやかなお母さんでいられたらよいのだけど、どうしてなかなか人間てのは、弱くて、そうもいかない。
また牛乳こぼしてる!に始まって、つまらないことで、すぐにキーキー言ってしまう。
とは言え。やっぱり今は有事だから、行動もいくらか制限されているし、お互い許し合っていないと息が詰まってしまう。
義母を心に飼って、穏やかさを、日に二度三度、注ぎ足しているこの頃。
目を離したすきに、寝室がおもちゃまみれになってたって、「上手に散らかしたねぇ。ははは」と言ってやるんだ。
事態が収束するまで、あとどれくらいかかるのだろう。新学期はどうなるんだろう。色んなことが不明瞭で、先のことを考え出したらキリがないし、どうかすれば悲観的にさえなりそうだ。
情報は錯綜するし、ニュースをつけても、気が重くなることばかり聞こえてくる。
そんな時でも、子どもたちが元気なことには変わりがないし、私が母親であることだって変わりないし、「困りましたねぇ」と、ただ言っているわけにもいかない。
いつも通りごはんを食べて、いつも通り寝て、少し窮屈に、いつも通り暮らすだけだ。
でも、こんなときにいつも通りを貫くのって、ちっとも全然楽じゃない。
楽じゃないから、少しでも自分が楽になる方法を用意して、自衛するのも大事な気がしている。
ご機嫌ファーストでタスクを処理して、お互い許し合って、せめて家の中は安寧でいたいな、と思う春休みの入り口。