妊婦になってまず驚いたのは、テレビドラマや映画でよくあるあの『妊娠』の表現方法である。
「うっ…!」
と唐突に口元を掌で抑えてトイレに駆け込む現象の事だ。
テレビのうそつき。
それは私が初めて妊娠した30歳の時。
とても幸運な事に、妊娠することを望んでからそう時間もかからずにおなかにやって来た我が子に戸惑いながらも喜んでいた妊娠6週目頃。
その時私は猛烈に眠かった。
とにかく眠い。
私は困惑したが、仕事は毎日のこと、まさか「眠いんです」という野比のび太みたいな理由で欠勤などできるはずがあろうか。
いや無い。反語表現で。
まだ胎児エコーにぽっちりとした豆としてしか映らない小さな我が子が
「お腹から落っこちたりしないだろうか」
初産婦らしい心配で脈拍を乱高下させながら、通勤中は電車の吊革につかまりつつ眠り、事務作業中に眠気が行き過ぎてパソコンのキーボードに頭を打ち付けた。
睡魔のせいで。
ついには眠気に負けて、開いている会議室に勝手に入り込んで椅子4つ並べて転がる『生きる屍』と化した私は、ついにある日ビル内を順番にお掃除してくれているマダムをビビらせた。
「アンタどうしたの!具合悪いの?大丈夫?」
河岸のマグロの如く会議用の椅子に転がる私にまずは驚き次に心配して叫んだマダムに、いえその実は妊娠したら何故だか猛烈に眠たくて特に午後は体が縦にならないんですとゾンビの如く起き上がりながら答えたら、既に孫もいると言うそのマダムが
「それもつわりよぉ~」
笑いながら教えてくれた。
そうなんですかマジですか。
何事にも勉強不足と準備不足がたたりがちな人生の私は、眠気がつわりだとは、ついぞ知らないまま妊婦業界の密林に足を踏み入れたらしかった。
妊産婦業界の密林は果てなく広大だ。
3人産んだ今も結局未だに全容が見ない。
風の噂で、つわりが大変な妊婦さんは水を飲むのもつらい、ついには体調不良と脱水の為に入院する人もいると聞いていたので、良かった、私はつわりが無いタイプの妊婦なんだと思っていたら。
眠気、オマエ、つわりやったんか。
人体の神秘。
そして味覚もかわった。
妊娠前にはあまり好きじゃなかった筈のチーズバーガーをもりもり食べていたしかもダブルのやつ。
それもまたつわりらしい。
あとフライドポテトと揚げせんべいとポテトチップス。
私の普段の好物は刺身と塩辛とあとは酒だ。
お陰で妊娠前半の体重増加量が半端ないことになり助産師さんには怒られ担当の産科医には母子手帳に
「体重増加・注意しましょう」
と大きく書かれた。
恥。
その妙な食の嗜好の変化と眠気は大体30週目くらいまで続いただろうか。
不思議で、そこまで深刻さの無いつわりの妊娠期間を経て、無事男児を出産。
そして1年8ヶ月後に2人目の子をおなかに迎えた時、妊娠が確認された6週目あたりから既に
「何この二日酔いと胃腸風邪の中間位の気持ち悪さ」
今度は結構スタンダードに強めの吐き気のあるつわりがやって来た。
1度目と2度目の妊娠、胎児の父親は私が特に離婚も再婚もしていないので同一人物、すなわち同じ両親、同じ原材料から成る胎児が胎内に内包されているのに全然違うタイプのつわりの波が来るとか一体どういうしくみなのか、つわり。
医学的にもこのつわりというものはどうして何で起こるものなのか2020年の今もその原因は、はっきりとは解明されていないらしい。
真相の解明を急げ医学界、後につづく妊婦のために。
とは言え私の「気持ち悪い系、わりと吐きます」のつわりは、この業界で最も苛烈と言われる「胃の内容物、胃液まですべて出します、そして遂には脱水」というハイエンドなつわり、妊娠悪阻と言われる程のものではかった。
が、常に口の中が気持ち悪い、口腔内に常に某化学調味料を噛みしめているような妙な味がして常時全然すっきりしなくて気持ち悪くて地味につらい。
それは何を食べても全然おいしくないというかなしみ。
よく妊婦さんが突然
「すっぱいものが食べたい!」
と言ってレモンとか梅干しを手あたり次第もりもり食べるあのテレビ的描写の意味をこの時私は初めて知った。
あれは酸っぱいものが突然大好きになったからそれを食べたいのではなくて、口の中が気持ち悪くて、何を飲んでも何を食べても全部寝ぼけたような妙な味がするし後味が悪いしで、最終的に酸味が強くてはっきりした味しか欲しなくなるという現象だ。
と思う。
私はまたひとつ賢くなった。
が、当時の私はそれどころじゃなかった。だってウィルス性胃腸炎級の吐き気に無期限で付きまとわれる毎日。
私は生存の為の栄養のすべてをその時唯一食べられた『つぶつぶみかんゼリー』で摂取する人間になった。
あとは炭酸水にレモン汁をジャバジャバ入れて飲むレモン炭酸水女に。
これは一体いつ終わるのか、長男の時はある日突然スッキリと終わってくれた眠気と不調、あれはたしか30週位?
早く30週にならないかな、アレ、30週過ぎてない?
じゃああと1週間待ってみる?まだ?じゃああと1週?
このつわり、毎朝
「今日は爽やかな気分でスッキリとした新しい私!」
という期待と希望を裏切りつづけ、おなかの子が生まれるその日まで地味に続いた。
そういう人もいるらしいとは聞いてはいたが、まさか自分がそうなろうとは。
アレはすごい、お腹の長女が生まれて来て即、解き放たれたつわりの吐き気。
それはまさに魔女の呪いが解けた美女じゃなくて経産婦。
身も心もスッキリしてその日のご飯が久しぶりにおいしかったことは8年を経た今でも、今朝の朝ごはんよりもよく覚えている。
お陰で産婦人科病棟のかき氷みたいな山盛りゴハンを連日完食、病院で言うところの『全量摂取』してしまい、看護師さんには褒められたが、退院時の体重が臨月の体重と同じだったのは結構ショックだった。
産んだはずの長女と胎盤その他合わせて大体6kgと言われる胎内の内容物の総重量を5日間ですべて取り戻したのは流石にやりすぎだ、自分。
「我が子をこの世に送り出す」
人生にそう何度もないとびきりの慶事にどうしていつも『気持ち悪い』『ゴハンがまずい』もしくは『眠すぎる』『食いすぎる』という母体にはつらいだけの無駄なオプションが付くのかその解答を得られる日は、最後の妊娠生活でやって来た。
3人目の子、次女を妊娠した時、そのつわりは2人目の長女のつわりを更にランクアップしてついでに
神経痛的なみぞおちの痛み
眉間を木槌で叩くかの如き謎の頭痛
突然の歯肉炎
この辺つわりとは関係ないかもしれないけれど、謎の痛みの追加プランが入ってしまい、3度目の妊娠、一応ベテランの領域の筈なのに私は泣いた、だって痛いのつらい。
はじめての高齢出産なのだから、もっと手加減してほしかった。
そうおもうのは、このおなかの子に22週目で心臓疾患が見つかり、3人目の妊娠で初めて「無事生まれるかどうかわからない」という不安丸抱えの妊婦になったから。
つわりによる体調不良とともに、胎児の疾患という自分では手も足も出ない状況に情緒が、かなり不安定になり
「今、赤ちゃんは大丈夫だろうか、どうして妊婦には透視能力が基本オプションにつかないのか」
と本気で思っていた。
胎動がはっきりわかるようになるまでは、いや胎動が出て来ても、胎児は気まぐれで
「今日は1日寝てるので動きません」
という日もある。
そうなると、おなかの子が生きているのか育っているのかなんて病院で胎児エコーを見せてもらえるまで全然わからない。
出来る事なら病院に日参してその無事をエコーで確認したいさえと思っていた私にはとりあえず日々絶え間なく続くつわりが胎児の生きている証になった。
つわり、それは私にとっての胎児のバイタルサイン。
胎児の疾患の経験が無いママでも、切迫早産や、胎児の発育不良、心音の確認の遅れその他の経験のあるひとは割といる。
言い換えると、妊娠期間中、何の心配もなく100%平和で安寧な妊婦生活だったという経産婦は少ないと思う。
妊娠というものは程度の差こそあれママにとってはサバイバル。
そんな赤ちゃんの生存を知らせてくれる役割をしているのが私にとってのつわりだったけれど、他の妊婦さんはどうだっただろう。
早くこんな吐き気の続く毎日にさよならしたいと思いつつ耐えて過ごした毎日、結構妊娠の後期まで地味に付きまとわれたつわりにお別れしたのは
39週と1日目だった。
義理堅いウチの次女は出産のその日まで
「ママご心配なく、私生きております」
を主張し続けていた訳でそう思うとこの子もなかなか律儀で健気だ。
でも、あの吐き気と痛みの毎日、あともう1回経験してくださいと言われたら。
絶対イヤ。