2人目の子を産むとき、大抵の人は思い悩むと思う。
「上の子をどうしよう」
普通分娩なら、経産婦の多くは出産日を0日として5日間、帝王切開なら、母体の状態にもよるだろうけれど2週間くらいだろうか、上の子を置いて新しい命と入院生活を送る事になる。
1人目から2人目の子どもの歳の差というのは何歳位が多いのか。
私が長女を産んだ時は、丁度周囲のママ達も2人目の出産ラッシュで、その年の差は2歳差か3歳差が多かった。
皆、まだ3歳にならない年ごろの第1子を自分の入院中に誰に任せるか、パパはどの位休むのか、お姑さんにはお願いできるか、実の母には……。
そういう事にひたすら頭を悩ませ、生まれたら生まれたで、新生児を屋外に出せるようになる時期まで上の子と家の中でどう過ごすかそういう事を逡巡して、どうしても胎児と自分だけを考える時間が少ないように思う。
私も御多分に漏れず、2人目である長女を妊娠中の主役は、長男だった。
ごめん、長女。
その当時2歳5ヶ月、まだまだ手のかかる盛りだった長男を誰に任せて入院生活を送ろう。
そして生まれた新生児を屋外に連れ出せる時期になるまで、普段は朝から夕方まで屋外を走り回り、よその子に「なんだよオマエ、誰だよオマエ」そんな目つきでガンを飛ばしてしまう思春期真っ盛りの男子中学生みたいに気難しいあの長男を、どうしたら何とか出来るのかと思い悩んだ。
理想を言えば、夫、その人に育休を取得してもらって、何とか私と共闘してほしかったけれど、この頃の夫と言えば、朝いつ出て行って、夜いつ帰って来たのか皆目わからない、作り置きの食事が消えているから帰って来たんだなという、幻のような人で、繁忙極まる9年前の夫は、とても育休がどうとかそういう状況になかった。
それで致し方なく、実家に帰省してそこで長女を産もうと決断した。
『致し方なく』というのは実家との関係が悪いとかそういう事ではなく、何しろ実家は特急を乗り継いで約6時間、幼児連れにはとにかく遠かった。
移動は大変だった。
私はその移動中、疲れでお腹がカンカンに張り、本気でこれは駅で生んでしまって今日の夕方のニュースで報道されてしまうのではと思ったものだった、嫌だ、それは避けたい。
お陰様で勿論産まなかったけど。
そうやって這々の体でたどり着いた実家、長男は絶好調だった。
実家の母はその頃まだ仕事をしていたので日中は不在だったけれど、看護師をしている姉が甥である長男を闇雲に可愛がってくれて、休みの日は小さな子が喜びそうな公園や水辺に連れて行き、帰りには田舎によくある巨大なスーパーに寄っては絵本やちょっとしたおもちゃを両手一杯に買い与えてくれた。
そしてこの姉というのが実家の絶対君主で
「ねえお姉ちゃん、有難いけど、ホラもうすぐお兄ちゃんになんやし、あんまり甘やかすとさ…」
など家庭内では最下層の下っ端である妹の私が意見するなど絶対に出来ない。
姑とかそういう存在の100倍は恐ろしい、一度些細な事で姉妹喧嘩をして1年口をきいてもらえなかった事がある、そういう人で、私にはそんな意見が言えよう筈も無かった。
でも、夜勤明けの朝さえ、長男君が退屈そうだからとドライブに繰り出してくれる姉には本当に助けられた。
夜勤明けの姉に車を出させる事が出来る男は、今も昔もそして世界広しと言えども長男だけだ。
そんな行き過ぎの伯母からの愛情を一身に受けた長男は、2歳5ヶ月、お兄さんの片鱗を見せるどころか、姉に構われ手厚く世話をされ、縦のモノを横にもしなくなった。
それはどういう事かと言えば臨月の母親に一日中だっこをせがみ、そしてちょっと気に入らない事が、例えばママが自分よりも犬を、これは実家の柴犬なのだけれど、それを可愛がったという些細な事でワンワン泣きわめくという状態、言わば立派に『赤ちゃん返り』をしてしまったのだった。
そうでなくとも、「ことばが遅い」だの「ちょっと月齢よりも幼い」だのと言われていた長男は、果たして赤ちゃんが生まれて兄としてやっていくのだろうか。
私はそれがこの妊娠中ずっと気がかりだった。
というのも、 ウチの息子はどんなに私のお腹がせり出してきて「ここに赤ちゃんいるよ」と伝えても不思議そうに首をかしげるばかりで、じゃあ実物を見せてもらおうと、お友達の家で赤ちゃんを見てもそれを一瞥して全く興味ない様子で鼻をほじくる始末。
たださえ普段人手不足甚だしい子育てをしているのに、新生児と、赤ちゃん返りさえしそうな幼児を抱えて毎日を暮らしたら一体どうなるのだろう、絶対生活が立ち行かない。
それで、この実家で、母や姉の協力を仰いで何とかこの長男に2歳児ながらも
「ぼくはおにいちゃん」
その感覚を身に着けてはもらえまいかと思っていたが、姉が手放しに甘やかしてとうとう食事の時に箸も取らなくなり、もしやこれは赤ちゃんが生まれたら長男にゴハンを食べさせつつ新生児に授乳をするのかと焦っていた。
その最中、産気づいた。
37週と5日。
朝4時頃に気が付いたあの鈍い痛みの陣痛はあっという間に10分間隔になり、早朝5時、母を叩き起こし、そして更にこの日は朝からの勤務だった姉に
「今から病院にいくから、長男君の横にいてあげてくれない?」
病院に送ってもらったら、そのまま母には自宅に戻ってもらうからと、長男を託した。
この頃の長男は、寝つきも悪いが寝起きも最悪で、目が覚めた時に近くに私の姿が無いと、1時間でも2時間でも大泣きするのが常だった。
そんな子を置いて行くのは、出勤前の姉に悪いなとは思ったが、かと言ってここで長男の爽やかなお目覚めを待っていたら、今度はおなかの子が出てきてしまう。
姉は「ヨシ分かった!ここは心配しなくていいから根性入れて産んで来い!」という大層雄々しい掛け声と共に私を送り出してくれた。
果たして。
早朝5時に病院に到着した私が長女を出産したのは母子手帳の記載では6時53分。
陣発から約3時間、病院到着から2時間、家族の付き添い無しの短期決戦のソロお産、ついでにこの母子手帳の枠外に当時長女を取り上げてくれた助産師さんの文字で
「とても上手なお産でした」
とコメントがあり、かつてこれまで3回お産に挑んだけれど、その中で実は一番うまく産んだのは長女だと私も思う。
短期決戦すぎて結構な出血があり、数時間分娩室に生まれたての長女と留め置かれたけれど、それも含めて生まれて直ぐの新生児とあんなにゆっくり過ごしたのは後にも先にも長女の時だけで、その時は小さな娘と2人、可愛いなあ幸せだねえと思ったのをよく覚えている。
が、その生まれたてでまだウトウトまどろんでいる長女を傍らに、だんだんと私は長男が心配になった。
あの子は朝起きてママが居ないと言って泣きわめいてないだろうか、それで家族に迷惑をかけていないだろうか、そう思って看護師さんにお願いして携帯で母に連絡を入れると
「長男君ねえ、目が覚めた時に『ママは赤ちゃん産みに行ったよ』って言ったら、泣かずに起きて朝ごはん食べたのよ」
そんな事を言った。
なんという奇跡、本当ですか神よ、この報告につい私はその直前にあったお産よりも感動し、そして次の報告を聞いた時、不意に涙がこぼれた
「でもね、しばらくしてフラっと、アンタと長男君が寝てた部屋に行ったなあと思ったら、そこに畳んである布団の上でね」
布団に突っ伏して声を殺して泣いていたという。
2歳の長男は、ママと赤ちゃんとお産の相関関係をどれくらい理解できていたのだろう。
それはわからないが、妹が生まれたその日、ここはママを恋しがって泣いて大騒ぎして良い時じゃない、我慢しなくてはいけないと小さいながら考えたのだと思う。
私がそこまで心配しなくても、長男は自分がお兄ちゃんになる事をそれなりにわかっていたらしい。
そうして、その日の午後、初めての兄と妹の対面の時、病室に祖母である母と意気揚々やって来た長男は、私に飛びついてくるものとばかり思っていたのに、まず最初に私のベッドの傍らに置かれた透明なコット、あの新生児用のベッドに勢いよく突進するように妹の存在を確かめに行き、勢い余って隣の床頭台に頭をぶつけて右の眉毛の中を切った。
そしてそのまま階下の救急外来に行く羽目になった。
この長男はいつもどこでも勢いがありすぎる。
その時のキズは今も、お兄ちゃんになった日のしるしとして長男の眉毛の中にうっすらと残っているというかそこだけ毛が生えてない。
そして、実家に里帰りをしたり、もしくは身内を気軽に手伝いに呼ぶという事が難しくなってしまった今このご時世、お腹に2人目の赤ちゃんを宿したママ達は妊娠自体の事や、その後の出産、そして兄や姉になる予定の子ども達への心配は、傍から見ているだけでも本当に尽きないだろうなあと思う。
けれど、僭越ながらこの往年の母である私からはひとつだけ
「ウチのあの長男ですら、ギリギリに『兄』になったという事実がありますよ」
という事は伝えられるかなあと思う。
子どもはいつも本当に侮れない、いろんな意味で。