夫の最も愛すべき点は、とにかくなんでもおいしく食べるところ、だと思っている。
付き合いだしてから数えると、夫と食事を共にして、もう15年以上になる。
この15年間、夫は私の出した料理に対して、苦い言葉を一切言ったことがない。
9割9分くらいで「おいしい」と褒めてくれる。
だけれど、そうかおいしいのか、とほくほくして私がひとくち口に運んで、ぎょっとしたことは何度だってある。
味付けが濃かったり、極端に薄かったりして、そのたび「濃くない!?」、「薄くない!?」と確認するのだけど、濃ければ「ごはんが進むよ」と言うし、薄ければ「野菜の味がよく分かるよ」と笑顔を添えて言ってくれる。そういう人なのだ。
夫はそもそも食べることが大好きで、食べ物を口に運んで嚥下する、という動作そのものが、好きなんだと思う。
私の料理であろうと、実家の料理であろうと、市販のお弁当であろうと、彼が積極的にお残しをしているところを、見たことがない。
彼にとって、たいていの食べ物はおいしいのだ。
そして、それは見事に長女に遺伝したらしい。
長女は、離乳食が始まったその時からなんでも食べた。
手づかみ食べができるようになったころには、振り返れば野菜室から盗んだトマトを両手に持って、ほおばっていた、なんてこともあった。
8歳になった今も、常に食べたことがないものを追い求めているし、口を開けば、なにかしらを食べたいと言っている。
そして、彼女もまた、だいたいの食べ物に肯定的である。
彼女が今まで食べ物に対して、「まずい」とか、「きらい」とか、を言っているのを聞いたことがない。
一度だけそれらしい言葉を言ったことがあるのだけど、その言葉がまさかの「ちょっと○○(長女の名前)には合わない…」だった。
たしか、3歳くらいのときだったと思う。
食べ物へ対する、強いリスペクトを感じた出来事だった。
そして、長らく私は、それらは夫の食べ物に対する、ポジティブな姿勢が、大いに影響しているんだと思い込んでいた。
つまり、遺伝的な要素もあるかもしれないけれど、ひょっとして食育らしきものがうまくいっているのではと、傲慢にも思い込んでいた。
というのも、私自身、料理を作るのが、どちらかと言うと好きなのだ。
作りたくないなぁ、と思う日も当然あるのだけど、野菜を延々と切るのも、コトコト煮込むのも、強火でじゃじゃっと炒めるのも、安定的に好きだ。
若いころには、料理に関する資格を取得したこともある。
だから、つくるのが好きな私と、食べるのが好きな夫だもの、向かう先は何でもおいしく食べる子ども、だと疑いもせず思っていた。
ところが、その思い込みは長男によって、あっけなく打ち砕かれることになる。
彼が3歳くらいだったろうか。
「これ食べたくない!」、「これいらない」、「今日はぜんぶいやだ」。
今まで、夫や長女からは、肯定的な言葉しか受けたことがないんだから、こんなのほとんど罵詈雑言だ。
押したって、引いたって、説いたって、何をしたって、気に入らない食卓であれば言うのだから、げんなりしてしまう。
そんな悲しい言葉を言われるために、食事をつくっているわけではもちろんないし、いつだって、よかれと思って食事を提供している。
だのに、その言葉、コミュニケーションとして、そもそもどうなの、と思う。思うし伝えもした。
のだけど、彼の面倒な性分はなかなか変わらない。
ひと口食べて「やっぱりおいしい」なんてことも、しょっちゅうだから、言いたいだけなのかもしれないけれど。
さて、我が家にはもうひとり子どもがいる。
3歳の次女。
この子はどうだろうと、ふたを開けてみれば、激しい好き嫌いこそないけれど、やっぱり「これいらない」と言ったりする。
緑色のお野菜なんて、その姿が見えたら、お皿によそう段でもう「末っ子これいらない!いれないで!」と、自分のお皿に手で蓋をする。
こうなると、向かう先にあるのは「達観」のみだ。
提供する4人のうち、ふたり、つまり半分がそういう態度なわけだから、いちいち傷ついているわけにもいかない。
そうですねぇ、好みは人それぞれですもんねぇ、と凪いだ気持ちで受け止める。
どの子も食欲が旺盛なのは同じなんだけれど、下のふたりに関してはそれなりの好き嫌いがあるらしい。
3人とも、同じように離乳食をつくって食べさせて、いつの間にか完了して、いつの間にか自分で食べるようになった。
手順はそれぞれ、ほとんど同じだし、同じ親のつくる料理を食べて、同じ親と一緒に食べている。
私は気分のむらこそあれ、料理をつくることに積極的な方で、夫は食べるのが好きだ。
だけれど、うまくいかないことって、どうやらある。
つまり、つまり、それってやっぱり、親の影響云々の、外側の話なんだと思うことにしている。
でないと、それなりに頑張って食卓を維持しているつもりなのに、時々ふとダメージを受けてしまう。
そうあれは、忘れたころにやってくる、園や学校からのお便りに踊り出す「食育」の文字。
大切なことが書いてあるのは、重々承知なんだけれど、「まごはやさしい」とか、「もっと魚をたべよう」とか、罪悪感を感じるに十分な文言が並んでいたりする。
「工夫して取り入れよう!」なんて書かれようもんなら、ぎゃあごめんなさい、である。
工夫が足りないばっかりに、魚はお残しするのに、餃子を吸い込むような食べムラを、発生させているのかもしれません、としゅんとしてしまう。
だって、餃子はどうしたっておいしいし、お魚は骨があったり難儀なことも多いし、好みが分かれるんだから仕方がないのだ。
毎日のことで、我が身に負荷をかけ出したら、きりがない。
善処した結果がこれなので、当分今のスタンスでやりますよ、と背中を正す。
まごのことも魚のことも、気にはなるけど、気になる程度にとどめておく。
苦手なものがあってもいいじゃない。
食べない日があってもいいじゃない。
だって善処したのに、これだもの。
そんなことを思いながら、今日も明日も、工夫や努力の外側で、嫌いと言われる予定のナスを焼いたり、いらないと言われる予定のおひたしをつくったり、そして、吸い込まれる予定の、唐揚げとか餃子をつくる。
「これいやだ」も「これだいすき」も、等しく彼らの率直な感想だと思えばいいんだし。
彼らは、彼らのおいしいを探す旅の途中だから。
なんでも「おいしい!」と絶賛する夫の前で、嫌いを主張できる彼らって、なんだかいっそ逞しいよね、と思うことにしている。