「わー、双子ベビーカーだ!」
「双子ちゃんだ〜、いいな〜」
「あー、双子だ!(ベビーカーをのぞき込んで)あら、でも全然似てないのね」
「双子!しかも男女?良かったわね」
「一人でも大変なのに、二人なんて。大変でしょう……」
これは今から6〜7年前、私が双子ベビーカーを押しているときにかけられた言葉の数々です。
双子出産後、眠れない日々が続き常に寝不足状態の中 、はじめての育児に悪戦苦闘していた私。
日に日に成長していく双子たちの様子を喜ぶ余裕もなく、私にとってはまさに“育児の暗黒期”真っ只中でした。
そんな中、やっとの思いで双子をベビーカーに乗せ、覚悟して外に出かけると
その大きなベビーカーが目立つのか、声をかけられることが多かったのです。
双子を可愛がってくれたり、褒めてくれたりと、嬉しくありがたい場面もたくさんあったのですが
気持ちに余裕のなかった当時は、好意的に(もっと言えば、正直喜ばしく)受け止められない言葉もありました。
当時の生活はと言うと
「ミルクは足りているのか?」
と悩んでいたはずが、あっという間に離乳食が始まって、2人分の食事作りに追われる。
小さい2人を抱えての乳児検診や予防接種。
1台のベビーベットに並んで寝かせていた双子は、気づいたときには寝返りができるようになっていて
ズリバイをしていたかと思えば、ハイハイして行動範囲が広がっていきました。
そしていつの間にか、つかまり立ちを始め、我が物顔で歩き出すように。
日々、目まぐるしく成長していく双子を前に、私は母親としての自分の成長が追いついていかないと感じていました。
やっとその月齢に応じたお世話に慣れた頃には、双子たちは更に成長していくのです。
当たり前ですが、双子ゆえ、同じことを2人分、2回やらなければならないことも多々あります。
圧倒的数的不利……
これが私の双子育児に対するリアルな想いでした。
あれは、双子が1歳を過ぎて歩けるようになった時のこと。
2足歩行ができるようになった子供のパワーははかりしれません。
「見てよ、わたし歩けるのよ」
「ぼくも歩けるんだよ」
とでも言わんばかりに、あっちへヨロヨロ、こっちへヨロヨロと、それぞれが思い思いに歩きまわりました。
おかげで、私が1人で2人を連れて出かけるハードルはどんどん上がっていきました。
その日も、どうにか双子をベビーカーに乗せ、スーパーで買い物を終えて
「本日の任務もなんとか完了!」
と思いながら足早にベビーカーを押していると、「あら、男女の双子ちゃん?」と声をかけられました。
振り返ってみると、「私も双子の母なのよ〜。もう子どもたちは小6だけどね」と優しい笑顔の女性がいました。
それまでの経験上、双子を連れて歩いていると様々なことを言われるので身構えてしまうことが多かったのですが、同じ双子のお母さんということで親近感がわきました。
話をしてみると、その方は、旦那さんの仕事の都合で海外で双子を出産し、育児をしていたと言うのです。
なんと。
まさにその時、双子育児にいっぱいいっぱいだった私からすると、異国の地で、知り合いもいない状態で双子を出産し、育ててきたなんて想像を絶する世界でした。
「日本で出産して育てていてもこんなに大変だと思うのに、海外で出産されて子育てまで。すごいですね……」
と伝えたところ、その女性から思いもよらない返事がかえってきました。
「いやいや、そんなことないわよ。でもね、海外だったから逆に育てやすかったのかもしれない」
海外だから育てやすかった?
不思議に思っていると、その女性は続けました。
「双子を連れていると、道行く人が『双子ちゃんのママ、幸せね〜』って、たくさん声をかけてくれたの。
それが当時の私にとっては、とってもありがたかった。
日本だと『大変ね〜』ってよく言われない?
でも『幸せね〜』って言われたからやってこれた気がしているの。
わたしたち、幸せね〜」
と。
わたしたち、幸せね……
その時の私の衝撃たるや。
今までかけられたことの無い言葉に、脳内の処理が追いつきませんでした。
「大変ね」なら今まで何度も言われてきました。
そのたびに
「そうなんです。大変なんです。子供を産み、育てているのだから、大変じゃないわけないでしょう」
と何度も思ってきました。
だから、「わたしたち、幸せね〜」という初めて耳にしたそのパワーワードを、うまく飲み込めなかったのです。
1歳を過ぎて、どんどん自我も芽生えてきた双子たちを前に、「幸せだな〜」なんて思う余裕はありませんでした。
でも不思議なことに、その女性に会って以来、母1人vs双子2人で数的不利な双子育児の中、つらくなると、あの日の「わたしたち、幸せね〜」が蘇るようになりました。
「幸せだな〜」とは思える状況ではないにしても、私は自分自身に「大変」の呪いをかけているのかもしれない。
「大変ね」って言われると「大変だな」と思っていたけど、「幸せね」って言われると「幸せなのかもな」と思うきっかけになったのです。
言葉を発した人の属性や、受け手のタイミングもあるけれど、言葉のちからを感じた出来事でした。
今、色んな制約がある生活の中で偶発的な出会いが減っているけれど、あの時、私はあの言葉に出会って、見える世界が広がりました。