小さな子が自宅の外の世界を歩く楽しさを知った日、野に咲くタンポポの綿毛を空に飛ばし、三輪車で草原を駆け抜け、土の温かさを手で体感した時。
そのどれもが全て楽しくて新鮮で皆、夢中になる。
ずっとお外で遊びたい。
あの遠くに見える公園にも行ってみよう。
とても素敵な事だと思う。
人生に2度は来ない、全てが新鮮に目に映るまぶしい季節。
しかし親は困る。
長男は「そんなに外がいいならお外で暮してはくれまいか」と真顔で懇願したくなる位お外が好きな子だった。
お外に行くのは朝ごはんを食べて、ママが家の中を掃除してお皿を洗ってからねとか、そんな母親の言葉なんか一切聞かず、玄関で勝手に靴を履き、当時の住まいは昭和の香りのする玄関扉のある、古い集合住宅だったのだけれど、そこの重たいスチール製のドアを
「イッテキマシ!」
元気よく体当たりで開けてパジャマのまま勝手に出かけようとする子だった。
3歳前後の子どもが1人でパジャマ姿で近所を徘徊、事件です。
流石に3歳児を1人で外に出す訳にはいかない。
私は慌てて洗濯物も掃除も全部放り出して、抱っこ紐に長男とは3つ違いの妹を放り込み、長男の背中を追いかける羽目になった。
お昼にご飯を理由に一度家に戻る事ができても、それが終るとまた午後の部。
3歳位になると、お昼寝というインターバルを必要としなくなる子も多い。
お外の太陽の輝きは子どもの頬のつやつやした産毛をまぶしく照らすが、同時に過剰な紫外線は中年にとっては疲れのもと。
つい最近世界に出現したフレッシュな命と、もうだいぶクタクタしてきた成人、疲労回復のスピードが全然違う。当時33歳の私は完全に幼児の体力に負けていた。
そうして午後もまた長男に付き従い夕方までを外で過ごし、説得に説得を重ねて帰宅した自宅には長男が洗濯機の前に脱ぎ捨てたパジャマのズボンが朝脱いだそのままの形状を保って放置されていた。
大体毎日こんな感じ。
だから、幼稚園に入園して本格的に通園が始まった頃、長男がイヤイヤ、ママがいい、バス乗らないと言いながらもそれをおだててすかして赤いマイクロバスに押し込み
「バイバーイいってらっしゃーい」
笑顔で幼稚園バスに手を振る事ができるようになった長男3歳の春は感無量だった。
これで、長男はあの底なしのお外への情熱と、桁外れの体力は幼稚園のお友達と園庭で、そしてお教室で発散してきてくれるだろうと、そう思っていた。
そこに暗雲が立ち込めたのは、入園から1週間目。
突然の発熱、そして欠席。
次の週は、お腹を壊してお休み。
これまで、あまり沢山のお友達と一緒に過ごすという経験のなかった長男は、幼稚園でまずハナ風邪を貰い、そして次に花冷えの冷たい雨の降る日にお腹を冷やしたのか下痢をした。
集団保育の中で過ごすと言う事、それはちょっとした病気をちょこちょこと貰って帰って来るという事だ。
知らなかった。
「せっかく、幼稚園に入園したのにね…」
そう言いながら、近所の小児科医院に行くのを嫌がる長男を散歩全力拒否の仔犬の如く引きずって行き、絶対飲んでくれないシロップのお薬を処方されて、それを飲め、イヤ飲まないと言い合いながら長男を家中追いまわしていた。
「長男君、幼稚園に言ったらまずお手々を洗ってね、幼稚園の先生も言ってるでしょう?」
「ワカッタ!」
「トイレに行った後もね、それから園庭でよくわからないものにも触らないのよ?」
「ワカッタ!」
私は、幼稚園の先生が教室の前に立ってお友達皆に伝える「手を洗いましょう」とか「園庭のお花を勝手にとってはいけませんよ」とか言う『大切なお話』を8割方聞いていないだろう長男に、家で幼稚園の先生のようにあれやこれや訓戒を垂れた。
楽しく幼稚園に通い続ける為には、先生の言う事をちゃんと聞く事、そして手指の清潔を保つこと。
そうしないと長男君はすぐに風邪とかハライタとかもらってくるでしょう。
「ウン!ワカッタ!」
ホンマにわかっているのか君は。
そして5月、連休が明け、長いお休みのせいで初日は幼稚園に結構行き渋って手こずったものの、行ってしまえば、園庭でのびのび遊んでいるようだった。
当時はまだ言葉がたどたどしかった長男は、ほぼカタコトではあったけれど幼稚園の亀が可愛いとか、園庭に赤い花が咲いていたとか、園長先生の頭にはどうして髪の毛がないのかなとかそういう話を、断片的に話してくれるようになっていた。
そうしたらある日、今日も園庭で遊んできたらしい長男が、帰宅してから、鼻を妙に気にしている。
ほじってみたり、こすってみたり。
「どうしたの?かゆいの?ハナクソ?」
長男に「天井見てごらん」と言って上を向かせて鼻腔を見たけれど鼻の奥は真っ暗だしよくわからない。
そうこうしている間に、突然鼻血が出て来て止まらなくなった、そして「イタイ」と言う。
こういう時に3歳児が困るのは、その「イタイ」が本当に「イタイ」なのか判断に迷う所。
この頃の長男はお腹が痛いときも、気持ちが悪い時も、それからかゆいとか、ちょっとした不快症状表現が全部「イタイ」だった。
なんだかおかしいなあと思って、病気に関しては猜疑心が強い私は夕方、長男を耳鼻科に連れて行った。
鼻水もすごいし、もしかしたら風邪なのかもしれない、それで鼻の粘膜が弱くなっているのかも。
「鼻血ねえ…鼻ほじっててひっかいたのか、それとも乾燥しているからかなあ…」
嫌がる長男を私が羽交い絞めにし、のんびりとした口調の耳鼻科の先生が息子の鼻の中に銀色の小さな筒のような器具を差し込んで、中を覗き込んだ
「あ、これ奥に何かあるよ」
「何かって何ですか?」
「あのね…ピンセット頂戴」
傍らの看護師さんから受けとったピンセットで先生がそっと取り出した。
それは
「種…だね」
小さくて黒い、何かの花の種だった。
そう言えば君は春先に幼稚園の園庭に赤い花が咲いていたよと言っていませんでしたか。
当時の担任の先生と本人の証言、そして母親として彼の行動を予測して立てられた推論は以下の通り。
息子は屋外が大好きで、普段から自由遊びの時間は常に園庭を走り回っていた。
そして園庭で園長先生やバスの運転手さんが丹精しているお花や植木が大好きだった。
ある日、お花が散ってそこに、小さな膨らみが出来ていた。
これは何だろう、見た事が無い物だ。
黒くて小さい。
多分それがその花の種子だ、長男はそれを宝物みたいに手に取って、制服のポケットに入っているハンカチに包んでそっとしまえばいいものを何故だか。
「鼻の穴に押し込んで持ち帰ろうとした、と」
「そういう事なんでしょうかねえ……」
私はこの一連の出来事を、ウチの長男がこんな事をやらかしましたというちょっとした面白い話のつもりで連絡帳に記入した。
先生、昨日こんな事があったんですよ。
そうしたら担任の先生から丁寧な謝罪の電話をいただいてしまった。
園の保育時間に監督不行き届きでした、本当にすみません。
とんでも無いです、むしろ長男が面倒ばかり起こして本当にすみません、でも疑問がひとつ
「どうして鼻に仕舞おうとしたんでしょうねえ」
私の正直な疑問だった。
「長男君は『ちょっとやってみたいな』って思った事に躊躇がないんですよね」
長男君のとてもいいところですよ!
先生は謝りながらも、長男は好奇心旺盛で挑戦する事に躊躇が無い所がいいですよねと言って手放しで長男を褒めてくれた。
そうでしょうか、母親は命がいくつあっても足りませんが。
油断していると何をしでかすのか分からない3歳児が影でこそこそとやらかした悪事を賞賛する。
幼稚園の先生とは何て心が広いんだろう。
私なんか
「こんなしょうもない事、二度とやらないように」
そう言ってかなりきつめに叱ったと言うのに。
『3歳の春』それは、我が家では乳児から幼児の育児がやっと一息つくひとつの節目の春で、少し位は楽になるかと思っていたけれどそうでもなかった。
楽と大変は順繰りに入れ替わっていくというか。
今年も家には1人、3歳の春を迎える子がいる。
末っ子の次女。
長男の、この新入園児である妹への訓示はただひとつ。
「花壇の花の種、鼻に押し込んだらアカンで、自力で取れへんから」
そんなん長男君くらいやと思うけど。