今や、すっかり我が家の主戦力のひとりである夫だけれど、かつてはとんでもなく無力で無自覚だった。
読む人をうんざりさせてしまうかもしれないのだけれど、まずは長女妊娠中の、夫の話をさせてほしい。
妊娠3か月頃からそれは始まった。そう悪阻。つわり。ツワリ。
なにをしていても気持ちが悪く、お口の中は常に不快。
座っていても立っていても、寝転んでいたって、ずっと気持ちが悪い。
そして、襲いかかる倦怠感。
まだお腹も大きくならないうちから、からだがずっしりと重たくて、なにをするにも、しんどかった。
毎日毎日、目が覚めて、「ああ、今日も気持ちが悪いんだな」と思うと、気が滅入るようだった。
そんなふうに、うんと調子が悪くたって、新婚マジックなんだろうかしら、はてさて、私はとても律義に夫の食事をつくっていた。
お弁当をこしらえて、夕方にはちゃんと晩ごはんをつくった。
しょっちゅう「おえっ」とえづきながらも、冷蔵庫を開けるのに躊躇しながらも、ちゃんと火を使った(おりこう)なにかしらを、用意していた。
今振り返ってみると、相手は立派な成人なのだし、ほうっておいてもよさそうなものを、いったいなにをそんな真面目に取り組んでいたんだろうか。
そして、夫も夫だ。
手伝うことすらせず、ソファに腰掛けていた。
本来なら、悪阻で苦しむ私が横になるべきその場所に、頑健で健康な成人男性が、なにをするでもなく座っていたという驚愕の事実。
そして、食後には洗い物が当然発生する。
1日を終えて、虫の息で夕飯をつくって、食べる気力もなく食卓に着き、今すぐ眠ってしまいたいのに洗い物がある。
そのことに私はうんざりしていた。
今日現在の私なら、「あとはよろしく」と言って、寝室へ引っ込むところだけれど、当時はなんと言っても新婚だし、私は無垢な20代だったし、嫁とは妻とはこうあるべき、というものに多少なりとも縛られていたんだろう。
重たい体を引きずって、シンクへ向かう私を見て、あの日の夫はこう言ったんだった。
「明日でもいいんだよ」
あの表情を、私は生涯忘れない。
とても慈愛に満ちた顔をしていた。
心から、優しさで言っている人間の表情そのものだった。
だからこそ、この人は何も分っていないのだな、と痛いほど思い知った。
明日の私も、引き続き悪阻を抱えているというのに、なぜ、元気いっぱい働き盛りの成人男性がやるという発想を、あの日の彼は持てなかったのだろう。
「どうせ明日の私がやるなら、今日やる」
どうにかそう言って、確か私は食器を洗ったんだった。
夫はそんな私を、切なそうな表情で見守っていた。
夫は誰からも「やさしい」と形容される、人当たりの良さと、物腰の柔らかさを持っているんだけれど、少なくとも当時、根本的なところの配慮がまったくなかった。
そんな彼を見て、ある友人が「腰の低い亭主関白」と形容した。言い得て妙でしかない。
この悪阻のエピソードだけでも、すこぶる腹が立ってしまって、気分が悪くなるのだけれど、夫の「どうしようもない値」は、産後には言うまでもなく右肩上がりでピークを迎え、産後1年ほどから、ごく緩やかに下降曲線を描いて、やがて底値を記録する。
つまり、今の夫はなかなか戦力である。
努力を認めて、めちゃくちゃ戦力です!と断言してあげたいところだけれど、私も正直者なのでそうはいかない。
それでも、まあ、以前のどうしようもなさを知っているので、加点評価を採用して、伸びた部分を褒めたいと思う。
最近の夫は、主にお洗濯担当。
朝、洗濯機を回して干してから出勤するし、食後の食器の片付けもわりとやってくれる。
休日に関しては、朝食をつくってくれることも珍しくないし、都合がつけば、学校や習い事の雑用も引き受けてくれる。
普通じゃない?とお思いになる方もいらっしゃるかもしれないんだけれど、これ、3人目が産まれるまで、彼はどれひとつとして着手していなかった、すべて。
彼は3人目が産まれた後、「朝のゴミ出しだけでもお願いしたい」と、とても丁寧且つ謙虚な姿勢で、お願いした私に対して、なんと、聞いて下さい、難色を示した漢と書いておとこである。
雨の日も風の日も、猛暑の日だって、まだ首も座らない赤ん坊と幼児二人を車に乗せて(ゴミ捨て場が少し遠い)、重たいゴミを産後の妻が、集積場まで運搬していることを知っていながら、なに。
人の心を、どこに置いてきたのか。
今これを書きながら思い出して、また信じられなさで、マグカップのひとつも割りそうな気持ち。
そんな、(腰の低い)亭主関白風情の彼が、今ではもちろん、ゴミ出しもやっている。
ごみを集めるところから(集め損ねていることも多々あるので、そのあたり善処していただきたい)、新しいごみ袋をかけるところまで遂行して、ちゃんとゴミ置き場に置いてくる。よくできました。成長。
現在は燃えるゴミのみを担当しているのだけれど、今後は不燃ごみもぜひ視野に入れていただきたいと、心の底から思っている。
出会ってから16年、結婚してから12年。長い道のりだった。
非常にのんびりとした成長であることは否めないけれど、今後の伸びしろに期待して、心を落ち着けている。
私がなにをどのように努めて、夫が変わっていったかということはほとんどなくて、単に子どもが3人になって家庭内で物理的にマンパワーの余裕がなくなったことと、あとは時代の後押しがとても大きいと思っている。
この10年ほどで、ほんとうに家族を取り巻く環境は、変わっているなと思う。
「子どもは2人で育てるもの」という文言が、ひとり歩きじゃなく、ちゃんと浸透してきているし、いつの間にかイクメンなんて言葉は消えてなくなった。長女が生まれた頃は新語「イクメン」が、まさに世に誕生した頃だった。
時代に乗り遅れたくない彼の性分と、よりよく変わろうとする世の中の流れが、運よくマッチしたんだろう。
そして私はその恩恵を受けられた、というだけのこと。
あえて言うなら、辛抱強く耐え忍んだな、えらいぞ、と思う。
もちろん、この10年ほどの間に無理がたたって寝込んでしまったり、精神的に厳しい状態になったこともあって、そういうことが彼にとってなにかしらの刺激になったという側面もあるかもしれないけれど、本来なら寝込む前に起動していてもらわないと困るので、それはあまりいいこととは思わない。
生理前なんかに、ふと長女の産後を思って憤怒したくなる日は、いまだにあるけれど、そういうときは彼なりの今の奮闘を称えて、そしてあのころに比べて、今やうんと手を抜けるようになった、今の私のありようを思ってみる。
私も大して頑張っていないと思えば、お相手の物足りなさを責める気にもなれない。
それになにより、先述したとおり、緩やかではあるけれど、彼も成長しているし。
今後の伸びしろを、四十路に期待できる、寛容でまっすぐな心を私は持っている。
期待をするから腹が立つ、とはよく聞くけれど、期待ができないと、こちらもなかなか頑張れない。
そんなわけで、今後の彼の伸びしろと、緩やかな成長を心の支えにして生きていく。
だから、台所用の洗剤だとか、ハンドソープだとか、洗濯洗剤なんかを、彼は最後の1滴までしぶとく使う癖があって、私が「詰め替え買ってあるよ」とお伝えしても、「いや大丈夫」と朗らかにお返事なさって、ポンプを執拗に押しに押して、ずびすび鳴らしながら詰め替えに踏み切らない、つまり私が詰め替える大前提で生きている部分も、きっといつかちゃんと成長すると信じている。