彼女の言っていたことは本当だった。
彼女というのは私より2年早く出産を経験していた、会社の先輩である。
とても仕事が出来る人で、隣の部署であったけれど私が困ってるとどこからともなく現れ、助けてくれることもあった。
そんな彼女が妊娠中の私に言った。
「産後はね、なんて言うかちょっと、ボケるよ。
でもそれはあなたのせいではないから。
心配しないで」
そしてその瞬間は、産後の入院中すぐに訪れた。
出産して、3日目。
助産師さんが私の病室に様子を見に来てくれた時だ。
「あ、そうだ。例のシートを提出しないと」
「例のシート」というのは入院中、赤ちゃんが何回オシッコをしたとか、いつどれくらい授乳をしただとか、ミルクをいかほどあげたのだとか、記録しておくシートのことだ。
「シートは書けましたか?」
「ええと、はい、ちょっと待ってください……」
私はボールペン片手にモジモジしていた。
どうしよう。
足し算が、出来ない。
2時間前の朝4時過ぎに糖水6グラム、ミルクを7グラムあげたのだけれど、6+7の足し算の答えが一向に出てこないのだ。
値が10から15の間であるのはわかるんだけれど、それ以上思考が進まない。
助産師さんをずっと待たせるわけにもいかないので、私はついに勇気を出して聞いてみた。
「すいません、6+7っていくつですか?」
助産師さんは「13、だね」とにっこり微笑んでくれた。
断続的に痛みの走る下半身を庇いながら思う。
これが、例の”産後ボケ”なんだな、と。
そう、彼女の言っていたことは本当だったのだ。
こ、これがウワサの…?
産後最大のウッカリ事件
出産から1年半後、夫の転勤に伴い、私たち家族は社宅に入ることになった。
社宅の住人一覧表を見て「お隣に人事部のお偉いさんがいる……!社内でも有名なキャリアウーマンなんだよ」と少々、おののいていた夫。
ビシッとスーツを着こなし颯爽と出勤するお隣の奥さんを、私もゴミ捨ての際に見かけたことがある。
背筋をピンと伸ばしたそのお姿は麗しく、とてもカッコよかった。
さて事件が起きたのは、引っ越してわずか1ヶ月くらい後のことである。
その日は夕方に息子と散歩に出て、クタクタになって帰宅した。
玄関のカギをガチャリとし、「おーいーでー、お風呂だよー」と階段のエンドレス上り下りを楽しむ息子に声を掛けるが、返事はない。
深いため息の後、最終手段だな、と息子をひょいと抱き上げると、ギャーと泣いた。
社宅の階段はむき出しのコンクリートで、息子の泣き声が響くわ、響くわ。
私は小脇に息子という名の鮮魚を抱え、サッとドアを閉めたのである。
さてさて夕方から夜にかけてのてんやわんやが終わり、20時。
あとは寝るだけだ。
すぐにウトウトし始めた息子をトントンし、今日は夜のひとり時間を確保出来るぞ、しめしめと思った矢先、「ヴーヴー!」と長めにうなる重低音のバイブ。
夫から電話がかかって来たのである。
目覚める、息子。
芽生える夫への怒り。
「な・に!?」(怒)
「ちょちょちょちょっとさ、どうしたん!?
〇〇さん(お隣のキャリアウーマン)から電話かかって来たんだけど、家のドアに鍵差しっぱなしだって!
すぐに見て!」
え……
えー!!!
覚醒する息子をそのままに玄関の外へ走ると、あら不思議、そこには確かに鍵穴に刺さったままの鍵があるではないか。
「……ごめん、あった。回収しました」
私は、落ち込んだ。
これまで自分は、どちらかと言えば”うっかりさん”とは縁遠い”しっかりもの”だと思っていた。
そんな自分が、鍵穴に、鍵を差しっぱなし。
不用心にも程がある。
キング・オブ・おっちょこちょいではないか。
私を非難しないことに定評のある夫に、帰宅後、ちょっとキツめに叱られた。
その事実が、また余計に私の傷をえぐるのであった。
ところでお隣さんはどうして直接我が家のチャイムを鳴らさずに、夫に電話したのだろう?
お隣さんが人事部のお偉いさんであることを変に意識してしまい、色々なことを想像しては、寝付けない一夜を過ごした。
母として、女性として
翌日、落ち着かない気持ちのまま、頭を下げに行った私。
「昨日はすみませんでした!大変助かりました!!」
すると、お隣さんの口から出たのは意外な言葉だった。
「あー!それよりごめんなさいね、お子さん起きなかった!?
チャイムで起こしちゃったらどうしようと思って、でも鍵が!となって、思わず夫さんの部署に電話しちゃったのよ~」
そうだったんだ……!
その後わかったことだけれど、お隣さんにはもう中学生になるお子さんがいた。
いま現在、仕事の第一線で輝く彼女にも、ずっと前に何らかの理由で寝かしつけが中断された苦い過去があったのかも知れない。
そんなことを想像すると、急に親近感を覚える。
「子育て中って、こども第一だから他の色んなことがガサーッて抜けちゃいますよね!
私もね、産後に家の駐車場で車ぶつけたことあるんですよ〜。ふふ。
じゃ、行ってきます~!」
そう言って、清々しいヒールの音と共に駅へ向かう後ろ姿は、なんだかこれまで以上に輝いて見えた。
お母さんになったら、みんな多かれ少なかれ、そういう時期があるんだな。
私は、同じ女性として、とても救われた。
産後のあれこれだけでなく、幾千と起こる育児の苦労を経て輝くお隣さんの存在に。
そしてその言葉に。
知っておきたい、マミーブレイン
「産後ボケ」は欧米では通称、「マミーブレイン」というらしい。
マミー(お母さん)の、ブレイン(脳)が産後のホルモンの影響で産前のように上手く働かなくなるらしい、ということだ。
よくよく考えてみれば、当然のことかも知れない。
母は出産により「圧倒的、私が守るべき存在ナンバー1」が出来る。
「自分が生きる」に加え、「子を生かす」のいう別の大仕事が増えたのだ。
単純計算で命が2倍。
他のことが雑になってしまうのは致し方ないのである。
私はこれ以外でも、「マミーブレイン」を犯人とする大小様々な事件を巻き起こしてきた。
たとえば……
「子どものカバン、車のルーフに置いたまま発車事件」
「産後しばらく活字読めなくなる事件 ~読解力がゼロに~」など。
でも今は足し算が出来る。
鍵も失くさない。
物を車のルーフに置かない。(逆に当時なぜ置いたか謎)
文章も読める。
全部、元通りになった。
だから5年前の落ち込んでいる自分にかけてあげる言葉があるとしたら。
「大丈夫、あなたの頭はちゃんと元に戻るから。
子どもが元気にしていれば、100点ってことにしとこ」
産後3年経った今でも、たまにボケをかましてしまう私もいるのだけれど。
それでもあえて言う、「いつだって、子どもが元気なら100点!」
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