自分で飯炊きをするようになって、17年が経ったのだけど、いまだになかなか相容れない食材がある。
安価でありながら栄養もあって、味もよいし、なにより嫌いだと言っている人をみたことがない。
名をお豆腐という。
お豆腐を、どうにもうまく使うセンスがいっこうに磨かれなくて、いつの間にやら遠ざけてしまったらしい。
なんなら遠ざけてしまっていることにすら、つい最近まで気がついていなかった。
納豆をよく買うので、お豆腐売り場にも普段から行くのだけど、どうにも豆腐には手が伸びない。
なんというか、視界に入らない、そんな感じだった。
先月だったろうか、我が家の小学生組(小3、小1)が、「今日、給食で冷奴が出たの!すっごくおいしくてお代わりしたの!」「僕もした!!!」と、興奮気味に教えてくれた。
給食で、ゼリーのようなカップに入った、冷奴が出たという。
付属のたれをかけて食べたらしく、それがとってもおいしかったそうだ。
そうか、君たちは冷奴というものを食べたことがないかもしれないね、と思ったと同時に、その時初めて気がついたのだ。
我が家において、お豆腐があまり食卓に上らない、ということに。
君たちは冷奴が好きなんだね、と訊ねると、ふたり揃って「うん!大好き!」と返ってきた。
お母さん、さらさら知らなかった。
私の腕が到底及ばないような、凝ったお料理なら、「そんなお料理があるのねぇ。給食でおいしくいただけてよかったねぇ」となるところなんだけれど、こちら冷奴だ。
切っただけで給仕できる冷奴。
それが彼らの好きな食べ物であると、肝心のお母さんが知らなかったのは、誠に遺憾。
かくして私は、我が家のお豆腐事情を見直すことにしたのだった。
大袈裟な性格なので、こういう些細なことにいちいち立ち上がってしまう。
はて、私ったらなんでお豆腐を買わないんだろう、と考えてみた。
例えば冷奴にするとした場合。
冷奴はメインではないし、きっと副菜だろう。ということは、メインにお肉なりお魚がいつも通り必要になる。
さて副菜は、となればやはり野菜のおかずを用意することになる。
あら、冷奴、そう冷奴と思ったところで、お豆腐はタンパク質だから、お肉やお魚とかち合ってしまう。
お豆腐はいったん置いといて、とりあえずお野菜のおかずをなにか作る。大根と人参の炊いたやつとか、ほら。
続いて、お味噌汁をつくる。汁物がやっぱりほしい。
お味噌汁にはお野菜を入れると決めている。
三人いれば各々その日の食欲も違えばそもそもの好みも違う。
万が一、三人のうちの誰かがどのおかずもカチッとハマらなかったとしても、お味噌汁さえあれば、という安心感に寄りかかって生きている。
お味噌汁にたくさんお野菜を入れておきさえすれば、必要なお野菜をある程度体に入れることができる。
喧嘩して不貞腐れていても、夕寝して寝起きが悪かったとしても、嫌なことがあって食欲が落ちていたとしても、大丈夫、私たちにはみそ汁がある、その安心を買うためだけに、私は日々野菜の味噌汁をつくっている。
そして最後に、なんだかいろどりがさえないな、と思えば、キュウリやブロッコリーやトマトを出して帳尻を合わせる。
食卓を一瞥して、よし、というわけで号令。
「ごはんだよ!」
あーでもない、こーでもない、とみんなでやんやとお食事を囲んで、せわしなく寝支度を整えたり牛乳を飲んだりお水を飲んだりしていたら、あっという間に就寝のお時間。
絵本を読んだり、おしゃべりをしたりして、おやすみなさい。
そう、冷奴が忘れ去られてしまう。
出番を失ったお豆腐が、明日へ持ち越されるという流れ。
だって、お豆腐はなんと言っても白いので、いろどり要員としてはいささか心許ない。ていうか、無彩色。
タンパク質だけれどメインとしては力不足であり、かといって、副菜とするとお野菜が物足りなくなるし、かといって、最後の砦、いろどり要員に関してはもはや戦力外。
というわけで、私はどうやら、お豆腐をいつどのポジションで食卓へ座らせたらいいかよく分からないのらしい。
子どもたちが給食の冷奴に歓喜した姿を見たことで、ようやくそんなことに気がついた。
今までお豆腐について腰を据えて考えることもなく、ただなんとなくお豆腐を避けてきていたようだけど、つまりはそういうことだった。
ただ、私はお豆腐がほんとうは好きなのだ。
嫌いで避けていたわけじゃ全然ない。
豆乳だって日常的に飲むし、実家ではいわゆる「お豆腐屋さん」のお豆腐をいつも食べていたので、お豆腐はおいしいものだという根強いイメージもある。
それがどうやら、残念な言いかたにはなるのだけど、お豆腐に関してはどうやら献立上、後手後手になってしまっていた。
けれど、子どもたちが給食の冷奴に大喜びして、お代わりまで頂いていたともなれば、我が家でもお豆腐の地位を上げるしかない。
さて、まずはとりあえず、冷奴。
早速、我が家でも冷奴を食卓へ。
やはりそれぞれものすごく喜んでくれて、切っただけの豆腐が乗ったこの小皿がこんなに喜ばれるなんて、とひとり感動した。
よく考えてみれば、切るだけなんだから小鉢をひとつ増やすくらいしたらよかったのだ。
どうも貧乏性が邪魔をして、食卓がそれなりにざっくりと賑わっていたら、それ以上のおかずを食卓に乗せるのを躊躇してしまっていたらしい。
以来、私はお豆腐との距離を縮めるべく、買い物に行きさえすればお豆腐を買っている。
長年に渡って距離を置いていたお豆腐との仲を、取り戻すためだ。
そうそう、お豆腐って、封を開けたら最後、みたいな気持ちがどこかにあって、あんなにみずみずしいんだから、封を切ったらなにがなんでも使い切らなくては、という気持ちもどこか私の気を重くしていた。
なので、まずはお豆腐の封を切ること。
買ってパックの封を切る、その動作に慣れることが大事。
封を切っても焦らずに、余ったら落ち着いてタッパーに入れたらいいのだ。なにを当たり前のことを。
いや、そんな当たり前のことだって、いちいちきちんと向き合わないと、なんとなく避けてしまうことってある。
私は、勇敢にお豆腐の封を切っていますよ、その明確な自意識が大事なのだ。
というわけで、この頃の私は勇敢にお豆腐を開けて、つくねに練りこんだり、お肉と一緒に煮物にしたり、お鍋に入れたり、冷奴にしたりしている。
お豆腐はやはりおいしいく、そしてどんな形に調理しても子たちがとてもよく食べるということも分かった。
少しずつ、お豆腐を攻略できそうな自信がついてきたこの頃。
因みに、私にはもうひとつ敬遠している食材があって、名を蒟蒻という。
アク抜きであるとか、差し込むべき場所に悩むとか、私にとって少し敷居の高い食材なのだけど、これもまた、子どもたちがとても好きなので、お豆腐と親密になった暁には蒟蒻の攻略もしたいと思う。
日々、成長している。