実家の両親は、驚くほど私たち姉妹の”成績”に無頓着だった。
ここで言う”成績”というのはもちろん学業の。
そういうものだと思って学童期を経たけれど、大人になって今、「それ」しか知らないことが少し心許ないような気もしないでもない。
数日前、全国共通テストのニュースが流れてくると、SNSも受験の話で賑わってきた。
「ほうほう…」と、いろんな一喜一憂のドラマを眺めながら
「これはまるで知らない世界だけど、思ったよりそういう世界は、世の中の大部分を占めているのかもしれない」
と驚いたりもした。
高校受験のとき、私の成績は地元の進学校の射程圏内にあった。
私と同じくらいの成績の同級生は、ほとんどみんなその進学校を受験したのだけど、私はその学校へ進学せず、ひとつランクを下げた普通科の高校を受験した。
母の意見は
「進学校へ行ったら入学してからもたくさん勉強しないといけないから、大変だよ?」
というものだった。
とても牧歌的。
父も母も成績にはほんとうに無頓着で、担任の先生との面談で初めて娘の成績を知り、射程圏の高校の名前を聞く、という程度の心構え。
そして、「あそこはお勉強する学校よねぇ…」とお勉強が嫌いな子どもだった母は、少しネガティブなイメージを抱いたようだった。
まだ15歳だった私は、牧歌的な母の意見を無垢な気持ちで受け止め
「そうか、それはしんどいかもね」
と、あっさり志望校のランクを下げたのだった。
母は自分自身が勉強嫌いだったから、お勉強に関して小言を言うのだけは絶対にしないと決めていたらしい。
確かに「お勉強ができなくても、元気でお友達がたくさんいたら、それだけでいい」とよく言っていた。
のだけど、皮肉なことに姉と妹は非常に成績がよく、しかし身体がとても弱くて、さらに言えば友達も決して多いとは言えなかった。
「期待に沿えなくて申し訳ない」と冷めた目をしていた彼女たちを、今でもたまに思い出す。
私はと言えば、彼女たちよりは成績が劣り、彼女たちよりは身体が強く、彼女たちよりは友達が多かったので、勝手に自分を大したものだと思っていた節がある。
そんな独自の価値観が我が家に蔓延っていたので、私も偏差値の高い進学校自体に、何かしらのポジティブなイメージを持つことができなかったのかもしれない。
その独自の小さな教育方針を身にまとい、私はすくすくと高校生活を送っていく。
居眠りが行き過ぎて担任の先生が激怒の果てに、個人懇談で母に小言を言ったのだけれど、母は
「周りを気にせず眠れるのはあの子の長所です」
とばっさり答えて帰ってきてしまった。
冗談でも何でもなく、帰宅した母はぷりぷりと不満をこぼしていた。
「中学校2年生の時の担任の先生なんて、居眠りする寝顔がかわいいですって言ってくれたのに!今度の先生ときたら……!」
中2時の担任の先生もだし、母もどうかしている。
当時の先生方にはほんとうに申し訳ないことをしたと思っている。
当然、成績の浮き沈みについて私はもちろん、母や父が一喜一憂するようなこともないまま高校生活は凪を極め、大学進学をする生徒ももちろんいたけれど、進学校でもなかったので、まあのんびりしたものだった。
早弁と居眠りだけで、私の高校生活は瞬くうちに過ぎていった。
凪いだ高校生だっていよいよ3年生になり、進学先の話が出た。
両親はやはり「県内ならどこでもいいんじゃない」と相変わらず無頓着で、しかしそれに反して私の成績は学内ではそこそこよかった。
なんと言っても、高校受験時に志望校をひとつ下げている。
模試を受ければ文系教科に限っては学内で1位だったりもして、廊下に名前が張り出されたりしていた。
ある日、購買部でパンを買った帰り、英語の先生に廊下で呼び止められた。
「どこに進学するの?」
「A大学の短大にします」
A大学というのは県内の私立の大学で、田舎の私学にありがちな地元に密着した感じの、つまり、これといった受験勉強をしなくても希望すればだれでも入ることができる感じの大学。
そちらの短期大学の名前を出した。
受験勉強も面倒くさかったし、余計な気を揉みながら春を待つつもりもなかった。
気楽に凪いだまま、パンを食べたりして春を迎える気でいた。
ところが先生は
「もう少し上を目指したらどう?勿体ないと思うのだけど」
そう言って、いくつかめぼしい受験先を箇条書きにしたメモをくれた。
人生で初めて「上を目指す」という単語を浴びた瞬間だった。
文明開化の音がした。
因みに担任の先生は、私が勉強よりも早弁と居眠りに忙しいことをよく知っていたので、早々に受験組から私を外していたし、彼もまた少し牧歌的な思想の教師だった。
ここで私は凪に凪いだ高校生活で「ちょっと頑張ってみても面白いかも」という気持ちが急にむくむくと沸いてきてしまい、くだんの先生が書いてくれたメモを眺めているうちに「受験しよっかなー」と閃いてしまう。
高校3年生1月のことだった。
私の突然の申し出に両親は困惑したあと、面倒くささを前面に露わにし、拒否反応まで示した。
あと2ヶ月で卒業だというのに今さら面倒くさいという風情だった。
それでも閃いたらやめられない亥年なので、どれだけ譲歩しようと思ってもあら不思議、後に引けないのだった。
もう前にしか足が進まない。
渋々親が許可してくれた大阪のたった1校を受験して、2月中旬、無事に合格通知が届いた。
あれだけ苦い顔をしていた母は、驚いたことに合格通知を見たら涙を浮かべて喜んでいた。
そんなふうに、私は勉学に勤しむとは程遠いところで学童期を過ごした。
受験勉強に心を砕く中学3年生も、高校3年生も、今でいう共通テスト、私たちのセンター試験も経験しないまま大人になってしまった。
模試の成績に揺さぶられたり、気を揉んだりすることも経験していないし、親に「勉強しなさい」と言われたことももちろんない。
だからもし、子どもたちがいざ受験をしますよ、という段になったとき、私はどんな風になって、どんなふうに見守るんだろうと思ったりする。
少し心許なくもあり、楽しみでもある。
子育てには自分が通った道をたどる懐かしさと、自分が通らなかった道を通る楽しみがあると思っていて、受験に関してはまさに後者。
親なんて無力だからできることなんてそんなにないよね、と思いはするものの、その未開の世界にちょこっとだけ参加させてもらいたい気持ちもある。
いつかの日を想像して、夜中にお茶漬けを差し入れしたり、取り寄せた志望校のパンフレットを一緒に見たりするのかしらと、少しときめきに似たものを感じたりする。
そういえば私の大学受験のとき、母と2人で少しいいホテルに泊まって、夜はなにかご馳走らしきものを食べに行った。
なんとなく高揚して見えた母も、もしかすると、そんな自分が通らなかった道を楽しんでいたのかもしれない。