72歳になる郷里の母は、いまでこそ実家で父と看護師をしている姉と、それから大人しかいない家で毎日甘やかされてすっかり我儘に育った柴犬と共に、毎日犬の散歩をして花を育てのんびり暮らしているのですけれど、私がまだ実家に住んでいる頃は、たいへんな働き者だった。
それは、母が主婦として日々家事に邁進し、室内にはホコリひとつなく、廊下はワックスがかけられて、キッチンのシンクはいつもぴかぴかと銀色に輝いていたということではない。
というより家の中の様子はそれとは逆だった。
廊下の左右の端に取り残されたホコリたち、子ども達が脱いだまま部屋に置き去りにされたかわいそうな靴下、そしてシンクの洗い桶に沈む無数のお皿と茶碗。
私の実家は私が高校を卒業して実家を出るまで大体いつもそんな感じで、母はとても細い体をしている癖にえらくよく食べる人だったもので
「だって自分が食べたいから」
と言っては3度3度いつも美味しいものを沢山作ってくれたけれど、とにかく掃除が苦手で嫌いで、その遺伝子を受け継ぐ子ども達も「お片付け」とは無縁の性格をしていて、それだから家の中はお世辞にも綺麗だとは言えない家だった。
しかしそれでも大変な働き者であった。
というのも母はもう30年以上前、北陸の小さな町の小さな会社で正社員として男性社員と肩を並べてバリバリと働いていたのだ。
肩書は係長扱いの班長だったか、とにかく今考えると相当格好いい母だった。
私の実家のある地域は私が子どもだった頃から
『働く母』
のとても多い地域だった。
多分これは実家の辺りが農業を営んでいるお家の多い土地で、農家というのは男も女も老いも若きも一家あげて仕事をする家業なもので、その延長戦上にあることだったのかなと思う。
それだから保育園も学童も、子どもの保育や預かりのための施設と制度は昔から潤沢で、今も幼稚園よりも保育園の方が圧倒的に多い。
そういうことだから30年前私の母が、ハローワークで仕事を探してきて就職し、毎朝、洗濯物だけを辛うじて干して、朝ごはんの洗い物はシンクの洗い桶にとりあえず沈め、廊下のホコリは見ないふりをして、張り切って仕事に出かけていくのは、よそのお家と比べても別に珍しいことではなかった。
それと母は私の4つ下の弟を出産してその弟が小学校に入学した後、これまた全くやったことの無い他業種に10年のブランクを経て社会復帰したという人で、この辺はなんだかとても現代の母によくあるパターンというか、私がそうだったもので、これは今の私にはとても親近感の湧くところ。
母は最初パート社員だった。
しかし、生来負けん気が強くて気真面目な性格をしている母は、本人は全く無自覚だったとは思うのだけれど、とても『仕事』というものに向いている人だったと思う。
多分、主婦業よりもずっと。
母は入社してものの数年でめきめきとその頭角をあらわし、いろいろな事務とパートの人の勤怠の管理をして欲しいからと言われて正社員になり、そこから更に数年でパート上がりの社員としては異例の昇進をした。
職位は係長と同等の『班長』。
小学生みたいな肩書だなあとは思ってあの当時はゲラゲラ笑ってしまったけれど、でも昇進は昇進だ。
それで母が昇進して最高に忙しかった時期、社内のシステムが全て電子化することになり、辛うじて電源が入れられる程度のPCスキル、スキルなのかそれはというものしかなかった母はちょっとした窮地に陥った。
しかしもともと負けん気の強い母は
「そんなこと私、できません」
と白旗など上げるはずもなく、徹底抗戦の構えでその時はわざわざ、社会人の職業訓練のためのパソコンのクラスを町の広報誌みたいなもので探してきて、終業後に子ども達に食事を作った後にひとりで習いに行っていた。
私はその当時確か中学生で、帰宅してひと息も入れずに即台所に立ち、それから食事を口に詰め込むようにして食べて、口の中をもぐもぐとさせながらまた夜学というのか、そういうクラスに出かけていく母のことを
「えっ…そこまでせんとあかんの?」
と若干引き気味に見送っていたものだけれど、その時の母の言い分というのが
「だって、できませんなんて言うの悔しいじゃない!」
だった。
そんな母の負けん気100%の主張を聞いた私は
「お母さんは一体何を言っているのだろう」
と思っていたのだけれど、今まさに当時の母と丁度同じ年の私は
「お母さん、わかる…」
と思う、そう思う自分が今ここにいる。
仕事って大変だけれど楽しいよね、自分にとって『いい仕事』ができないとイヤだよね、頑張った事が評価されるのって嬉しいよね、頑張ったのに評価されないと悔しいよね。
そういうのを当時の母と同じ年の私は今、手に取るようにわかるようになってしまった。
母は負けん気が強くて実のところそれなりに能力もあって、そうなると何をどう頑張っても別にそれが数値で評価されたりはしない主婦業よりも、ちゃんと評価が昇給とか昇進で明確になる仕事が楽しくて好きだったのだろうなあ、でもそこの傍らに家事も育児もあってそれを放ったらかす訳にもいかなかっただろうし、相当大変だっただろうなあ。
そんな風に思い至って今、母を心から讃える気持ちになっている。
しかし当時の私はと言えば、いつも忙しくしている母に、たとえばゴハンなんかは毎日たくさん美味しいものを作って貰えるけれど、部屋はいつも雑然としているし、新しい仕事や企画、たとえば「新工場の立ち上げですよ」となれば毎日残業で待てど暮らせど帰ってこないし、そんな忙しい妻を持っている癖に戦後すぐ生まれの父は米も炊けないから私や姉が忙しくなるし、まだ小さかった弟と先代の甘えん坊の犬は
「お母さんが帰ってこない!」
と言って泣くので割と困った。
そして何より時折とても珍しく風邪をひいて私が熱を出すと、その日は欠勤して娘を病院にも連れて行くし、お粥も作ってくれるけれど、体温計が37度以上の発熱を表示した瞬間に
(えっ…嘘、マジで、このタイミングでかよ)
という顔をしていたのを私は見逃していなかった。
3人子どもがいて、この先学校に出してやって家のローンもあってとなると、父の傍ら母が必死になって仕事をしなくてはいけないというのはわかるのだけれど、子ども心にすこしだけ、ほんのすこーしだけ。
(もうちょっとさあ…)
と思ったし、結構最近までその辺はそう思っていた。
まあ会社も会社で「休みやすい環境」というものを整えてくれないといけないのではとか、父親はどうしたんだとかそういう問題もあるのだけれど、でも実際に母は責任のある立場の人だったし、当時はまだリモートワークなんて働き方はなかったし、当時の母が『ちゃんとしないと』という気持ちで物凄く頑張っていたんだよなということは、今の自分には本当によくわかる。
昔々「えー…」と思っていたことが年をとって、例えばこの場合は当時の母と自分が同じ年になって、その印象ががらりと変わることは本当に面白いなと思うし、何より素敵なことだ。
私が今、パソコンの前でブツブツ言いながら伸ばしっぱなしの髪を結んではほどきまた結んで、たまに頭をバリバリ掻いて
「おっ!なまはげか!」
と長男に言われてしまうようないで立ちで仕事している姿を、いつか子ども達は「お母さんなりに頑張っててんな…」と理解してくれるのだろうか。
そして現在の母はと言えば
「お母さん40歳ちょっとの頃、めちゃくちゃ働いてたやん…」
という過去のことなんかすっかり忘れて娘の私が、今は色々と事情があってどこかに勤めることはできないけれど、家でもできる仕事があってそれを細々やらせてもらえてありがたいことだよと言うのを
「仕事がどうよりあんたの身体が心配よ」
などと言う。
いやいや、あの現役の頃のお母さんの獅子奮迅ぶりに比べたら私なんて、ほんまにまだまだやで。