真ん中っこ長男が小学校2年生に進級した。
2年生と言うとあれ、そうあれ、九九。
九九だ。
私の小学校2年生の思い出と言えば、放課後の「だるまさんがころんだ」でマミちゃんが転んで前歯を折ったことと、その後一生つきまとう変なあだ名がついたことと、掛け算の九九で苦しんだこと、だ。
九九はそれくらい私にとって鮮烈な思い出。
私は周囲の大人から数えきれないくらい「口から産まれた」と言われるくらい言葉が達者な子どもだった。
保育園の頃の連絡帳には何度でも「おしゃべりが上手」と書かれてある。
姉がいたからか、少し背伸びしたところもあったかもしれない。
口が達者で少し生意気だった私はなんだか少し自信過剰なところがあったらしい。
初めて九九を知ったとき「こんなものできるわけがないし、きっとみんなもやらないだろう」とずいぶんと強気なことを思ったのだった。
だって、いきなり81個もの式を覚えるなんてできるはずがない、と思ったのだ。
小学校は思ったよりも容易いところだったし、ひらがなを読んで、楽しくお歌を歌っていれば楽勝だと思っていた。
大きな声でお返事をして手を挙げれば褒めてもらえたし、ここまで大きな面倒なんてひとつもなかったのだ。
それを2年生になったからってなーにを言っているのか、という気持ち。
なんて困った子ども。
みんなどうせこんなことやらないんでしょう、と腹をくくった面倒な子どもは、算数の時間が進むごとに驚いた。
毎回、算数の授業の一番最初に、全員で九九の暗唱をすることになっていて、みんなしどろもどろだったし私ももちろんそうだった。
1の段と2の段を言い終わったらあとは5の段を除いて口を適当に開け閉めするだけ。
5の段は時計を見ながらやれば上手くできると途中で気づいた。
そんなふうに日々を過ごしていたら、あるとき周りの音がそろっていることに気がついた。
みんな着実に九九を覚えていた。
先生の前で九九を上手に暗唱できたらもらえるシールを、仲良しのあいりちゃんが気づけばたくさん集めていた。
教室の後ろに掲示されたシールを貼る表に、みんなが着々とシールを並べていた。
やばいな、と思ったのだけど、さてここからどうしたらいいのか分からない。
親にも「九九を覚えなさい」と言われてはいたんだけど、地道な努力を一切知らない私はこつこつと復唱するなんて思いつきもしなかったのだ。
今思うと、九九カードもなかった気がする。
みんな教科書を見て覚えたんだろうか。
はて。
家ではいよいよ、やきもきした母が口うるさく言うようになっていた。
「3年生になってからも、その先もずっと九九は使うんだから、九九をちゃんと覚えないと大変なことになるよ」
とたびたび言われた。
今思うと、おそらく姉はほっといても勝手に九九を覚えたんだろう。
まさか私が2の段以降ろくすっぽ言うことができないなんて想像もしなかったのだと思う。
ある日の夕飯前だった。
料理をする母の隣でその日あったことを楽しくお話していた。
私は冷蔵庫にもたれかかって、なんだかご機嫌だった。
ぺちゃくちゃと話す私に母が突然言ったのだ。
「3×7はなに?」
忘れもしない。3×7。
「に、にじゅうよん」
喉の奥から絞り出した。
背中に伝わる冷蔵庫のひんやりとした感触まで覚えている。
「違う。21」
ああ、これはいよいよもう逃げられない、そう悟った。
姉が九九の歌を吹き込まれたカセットテープを貸してくれたのだけど、妙に意固地になっていた私はそれを突っぱねた。
父がやさしく「歌って覚えればすぐだよ」と話してくれてもそっぽを向いた。
なんだかずいぶんと拗らせてしまって、自分でもどうしていいか分からなかったのだ。
そんな私に業を煮やした母のかんにん袋の緒が、ある日いよいよ切れてしまう。
私を九九が書かれた下敷きと一緒に仏間に放り込んだのだった。
まじかよ、と思った。
「ここにマッチ棒があるでしょ。100本あるから、1の段から9の段まで読み上げたら1本右に動かしなさい。ぜんぶマッチ棒が右に移動したら仏間から出ておいで」
薄暗い仏間の座布団の上で、目の前のマッチ棒を睨んで「えらいことになったな」と思った。
お仏壇の前でまさか九九を読むことになるとは思いもしなかった。
朝晩のおばあちゃんの特等席に座っていよいよ覚悟を決めた。
階下の家族の声を聞きながら、黙々と九九を読み続けた。
まな板の上のコイになった私はただ淡々と九九を唱える。
目の前にはお仏壇。
余談だけれど、北陸のお仏壇は他県のそれに比べてずいぶんと大きく迫力がある。
ビカビカ眩しい金色の装飾があの頃とても苦手だった。
お仏壇を見上げては悲しくなった。
「早くここから出たい」その一心でマッチ棒を動かし続けた。
100本のマッチ棒に気が遠くなる。
だけど、マッチ棒が減るにつれて滑らかに九九が口から流れ出てくることに気がついた。
手ごたえを感じると楽しくなって、気がつけば100本はあっという間だった。
100本のマッチ棒を動かし終えた私は完全に生まれ変わっていた。
口を開けば無限に九九が飛び出しそうなほど、体の隅々に九九が行きわたっていた。
仏間に入る前と後で、こんなにも世界が変わるのかと子どもながらに驚いた。
あんなに九九に悪態をついていた私さようなら、今日から私は九九の申し子。
いくらでも抜き打ちで九九を投げかけてくれていい。
8の段だって、9の段だって、息をするように答えられる。
よどみのない九九をいくらでも披露できそうだった。
そんなふうに、九九をマスターしたのはたった1日の出来事だったけれど、親の気を揉ませた時間はたぶんそこそこのものだったと思う。
いったい私以外の人たちはどんなふうに九九と向き合って、九九を覚えたのか不思議でならない。
長女が小学校2年生になったとき、九九をまっとうに覚えられるなんてにわかには信じがたく、実は不安に思っていた。
なんだけど、長女はなんというか、「普通」に1の段から順番に少しずつ覚えていき、きちんと9の段までまっとうした。
毎日こつこつ九九カードを読んで、毎日学校で友達と楽しみながら九九を覚えていったらしい。
さて、冒頭にも書いたけれど、今年は長男が2年生になった。
彼はどこか斜に構えたところがあるから、反発して覚えられなかったりして、とまた勝手に警戒している。
警戒もしているけれど同時に、そんときは伝家の宝刀よろしくマッチ棒をさし出すだけだよ、と思ったりもして。