うちの3人いる子どもたちは皆、言葉がとてもゆっくりだった。
それは今でこそ、その『遅さ』が専門の、医療者や心理士さんの範疇のもので感じでもないかぎり
「ゆっくりなら、ゆっくりでいいのじゃないの毎日が元気にご機嫌なら」
なんてのんびり悠々構えていられるようになった。
でも、それは私が3人の子どもをもうある程度の大きさまで育てているからこその感覚なのであって、1人目の長男がまだ幼児と呼ばれる年頃だったころは、例えば月齢のそう離れていないお友達が
「ママー、ソレチョウダイ?」
なんて滑らかに話している隣で、アーとかウーとか終いにはニャーとか。
何それ猫と会話してんのと言いたくなるような、喃語に毛の生えたような言語しか話してくれない息子に酷く焦ってしまい、夫の母、即ち私からすると姑さんなんかは、この頃夫の実家に長男を連れて行くたびに
「うちの子達はみんな言葉が早くてね、お兄ちゃん(夫の兄)なんて、1歳になる前にママって言えたのよ~」
と夫の兄の幼少期に面差しのよく似ているらしい長男をニコニコと見つめながら、何度も何度もそうおっしゃるもので
(なんですか、うちの長男の言葉が遅いのは頭の不出来な嫁のワタクシのせいということですか)
姑さんからすればただの思い出話であるはずの『言葉の早かったウチの子』の話に、心のハンカチをギィーと噛みしめてしまうほど、長男の発語が周囲のお友達に比べてのんびりとしていることに焦りっていた。
それだから長男が初めて言葉らしい言葉を発した時には本当に嬉しくて文字通り飛びあがった。
ただその一言目が
「ダイチャン」
だったもので、これは一体どういうことかと、飛びあがって即私はえらく困惑してしまった。
ダイチャンというのは、仮名ですけれど、当時同じ集合住宅に住んでいた同じ年のお友達のこと。
長男は3月生まれ、ダイチャンは4月生まれ、同じ学年であるけれどもほぼ1歳差のとても気が合う2人はお外に出るといつも一緒だった。
同じ年のお友達の中ではひときわ体が大きくて、ヤンチャなダイチャンは自分よりもあたまひとつ小さい長男を弟のように可愛いヤツやと思っていた様子で、いつも滑り台やお砂場に「来いよ!」と誘ってくれるし、機嫌が悪い時にはなんだか妙に乱暴者になってしまう傾向にあった長男は兄貴みたいなダイチャンが大好きで、ダイチャンには乱暴モードを絶対に発動させず、故に2人はどんな時も決して揉めたりする事がなかったし、喧嘩もしなかった。
それだから『ダイチャン』を言葉にするのが早かったのはよく分かる、分かるのだけどさ、ママは?パパは?
とはいえ相手が普段お世話になりっぱなしのダイチャンであるのなら仕方ない。
私と夫は次の言葉に期待した。
次こそはママやろ、いやパパやろ。
でもその次に長男が話した言葉は当時大好きだったいくつかの新幹線の名前、その中でもひたすら連呼したのは
「まこち」
という謎の言葉だった、えっ、なんなんそれ。
まこちってなあに?それどういうこと?と何度聞いても「まこち」としか言わない長男を前にして
(えーっと、そんな名前の新幹線車両、あったやろか…)
と首をひねることしばし。
当時の長男は多分2歳とすこし確かそれくらいの月齢で、まだ会話らしい会話がほぼできないというのに、どうしてだか国内海外の新幹線と特急の呼称にやたらと精通していた。
「さて、どっちが特急サンダーバードで、どっちが特急くろしおでしょうか?」
などの指さしで回答可能な質問には百発百中、絶対間違えない男だったのだ。
お陰様で私は長男が電車を偏愛し始めた2011年から以後数年の間に国内を走行していた新幹線車両と特急の名称にやたらと詳しい。
そして当時の長男は「まこち」という謎の言葉について、何やそれはと首をひねるばかりの私に「ハー」とため息をついたかまでは覚えていないけど、すたすたと本棚に行き『だいすき!電車図鑑』とかいうタイトルの分厚い愛読書を私のところに持ってきた。
(まったく、わかってないママやな、これや、これ)
そうは言わないものの、ページをぱらりとめくって指さしたそこには当時、新型車両として公開されたばかりの秋田新幹線、新幹線E6系電車が大写しになっていた。
(長男それ、まこちと違う、こまちや)。
人類というのは野生動物に比べ得るとうんと脆弱な生き物で、生まれてすぐなんて小さな体に、やや大きな頭、それから細い手足、出生から1年程は自力で歩く事もできないし、ひとりで食事をとることもできない。
私は1人目の長男を生んである程度、彼が言葉を解して、自力でスプーンやらフォークを使って食事をできるようになるまで、ほんのりとではあるけれど
「人類、自力であれこれできるようになるまで時間がかかりすぎるのでは」
と思っていた。
この先、種として生き延びてゆく気があるのやろうかと。
実家のきなこ(柴犬)なんか、生後数ヶ月で実家に貰われてきてすぐに自力でご飯を食べていたし、トイレも数日で覚えたぞ。
けれど、この「まこち」というやつは、その不完全な人類に発生した何とも可愛いバグではないのかと、当時の私は話し言葉が全部電車やないのとか、これでは会話にならないやないのという根本的な悩みをしばし忘れて
「かわいいなあ」
と笑ったものでした。
そういうことを踏まえて、色々と注意深く聞いていると、喃語の一種とばかり思っていたもぐもぐと不規則な発音の「なにか」も長男には明確に意味のある言葉だったりして、例えば
「ぽっぽ、びー」
というのは、実はこれおんぶ紐のこと。
これを連呼する時は、眠いのでおんぶして寝かせてくれという意味だった。
「おんぶ紐」が「ぽっぽ、びー」
音も意味もどこも1㎜もかぶっていない。
これを推理して理解した当時の私も凄いが、その言葉でおんぶせえを押し通した長男の強引さも凄い。
思えば頑固な幼児だった。
そして続く長女。
この子については、多分本人が生まれた時から今日に至るまでとてもシャイ、大変に内気な性格だという要素が大きいのかもしれないけれど、やっぱりおしゃべりはのんびりとマイペースで、幼稚園の年中組さんになるくらいまでは人前でいつももじもじしてあまりしゃべらなかった。
しかし兄である長男のように新幹線車両を言語として使用するという突飛なことはせず、大体どこのお子さんもひっかかりがちな
「ポップコーン」と「とうもろこし」
を
「コップポーン」と「トーモコロシ」
と発音したりしてくれて、その音感の普遍的な可愛らしさに親を身もだえさせてくれたもの。
しかし、上手く発音することができない言葉、音の順番が前後する単語、そもそもが意味不明な造語、そういうものはもう13歳と11歳になった長男長女には、当たり前のことだけれどすっかりナリを潜めしまって、それならと現在4歳の次女に
「ねえねえ、ポップコーンって言える?」
と聞いたら
「ポップコーン」
と普通に発音できてしまった。正しい、正しいのだけれどなんだか寂しい。
ウチにはもう赤ちゃんと幼児の間くらいの子はいないんだなあとしみじみしてしまう。
でもこの次女は、乳酸菌飲料全般をなぜか
「ヨーグルト」
と言うのですよね、何がどうなって混同してしまったのかはちょっと不明。
離乳期を終えてすぐの頃、次女には生まれつきのちょっと厄介な持病があって、その関係で食べるのが下手で大変な偏食だった。
それで「ヨーグルトしか食わん」という時期が少しの間あったもので、当時飽食しすぎたヨーグルトが今潜在的な味の記憶となり、ビィフズス菌の入った酸味と甘みのある食べ物を全部『ヨーグルト』と思い込んでいるのかただ単に言葉の分類が雑なのか、それはわからないのだけれど、なんだか可愛いので訂正していないのです。
そしてこの次女は、少しだけ秋らしい風の吹き始めた最近、お外遊びに夢中。特にちょっとした公園だとか河原にレジャーシートを持って行き、そこで持参したお弁当とかお菓子を食べることがお気に入りの休日の過ごし方で、お休みの日には朝起きた瞬間にこう言うのです。
「ねえ、ピクミク、いこうよ!」
『ピクミク』はホンマは『ピクニック』って言うのやでとは思いつつも可愛いもので、やっぱりなんだか、訂正したくない。