1年位前に、長女が大の仲良しのお友達から英会話教室に誘われた。
なんでもやりたがる性格だから、これは「ぜったいやる」と言い出すぞと覚悟を決めたものの、意外なことに長女は「ううん。いいや」と言った。
絶対に行くというと思ったのに驚いた。
長女はやりたがりな性格もあって習い事が少々多いので、親としてはほっとしつつも不思議だった。
「なんで断ったの?」
「だって、ママに教えてもらうから」
ママ。
ママとは私。
え、私?
いつの間にか長女に白羽の矢をあてられていたらしい。
学生の頃、アルバイトで英語の家庭教師をやっていた。
何年か前、その生徒のひとりが近くに住んでいた時期があり、頻繁に遊びに来ていてよく一緒にあそんだり、ごはんを食べたりしていた。
どうやら彼女みたいにいつか私もママに、とひそかに思っていたらしい。
とりあえず、長女の思いは受け止めてみたものの、まあまだいいでしょうと思っていた。
だって、今すぐに英語が必要なわけでもないし、本人も今すぐ学びたい意欲がたぎっている様子でもなかったし。
しかし、こちらにそっと投げられたソレをいつか形にしないといけませんよねぇ…とぼんやり思ってもいた。
とは言え、やはり繰り返すようだけれど今すぐ必要なわけでもないし、日々はそれなりに慌ただしくてやることが目白押している。
なにかいい方法があればいいのだけど、と思いながら日々は過ぎていく。
語学の習得は一朝一夕にどうこうなるものでもないからこそ、嫌いになったり苦しい思いをして苦手意識を持たれるのは避けたくもあった。
なんと言っても高校を卒業するまでべったりくっついてくる必修科目なのだ。
中高生のうちは1週間のうち英語の授業はほとんど毎日あるだろう。
嫌いになると暮らしの中で楽しくない時間が増えてしまう。
楽しくない時間は少ないほどいいというのに。
そんなことをあれこれ考えているうちにあっという間に1年が経っていた。
けれどその日は突然やってきた。
私がSNSで知り、お遊びで始めた語学学習アプリを横で見ていた子どもたちが「同じのをやりたい」と言った。
まあ、お楽しみ程度にとタブレットに入れてあげたら、長女と長男ががっちりハマった。
日々コツコツとアプリをこなして、どんどんカリキュラムを進めている。
正解するたびにかわいいキャラクターが跳ねてくれて、頑張ったら褒めてくれる。やった分だけレベルが上がって、ものすごく楽しいらしい。
「やったー!」やら「よっしゃー!」やら歓声を上げて勤しんでいる。
ああこれはいい教材に出会えた。
私はフォローに回ってこちらのアプリにいったんお任せしましょうと思っていたある日。
いつものようにアプリをこなしていた長女がおもむろに「オーストラリアに行きたいなぁ」と言った。
オーストラリアには夫の姉一家が暮らしている。
「わあ!いいね!いつか行けるといいね」
「うん!次の冬休みに行く!」
長女が眩しい笑顔を向けている。
「いやいや、そんな。え、だって、それはいくらなんでも」
狼狽する私をよそに長女は
「パパ!オーストラリアのおばさんの連絡先教えて!」
と夫に交渉をして夫はあっさり教えてくれて、その場で長女は自らメッセージを送っていた。
待って、お母さん展開が早すぎてついていけない。
夫の姉からすぐにメッセージが届いた。
『冬休みは急だなぁ(笑)』
そうでしょうそうでしょう。
言ってやってちょうだい。
『春休みにしなよ!もう4年生なら飛行機もひとりで乗れるね!』
さらに2段飛ばしの提案が来た。
待って、そんな馬鹿な。
ひとりで、飛行機に????
こんな、この前生まれたばっかりのまだ毛穴もニキビもない、つるんとしたほっぺたのこの子が?????
ひとりで????
海外へ?????????
『うん!じゃあ春休みにいくね!』
長女はスマホの上で指を躍らせる。
後日、義姉から春休みの都合が悪くなったと連絡があり、安堵したのはやはり一瞬で
『だから夏休みにおいで!みんなでどこに連れて行こうかって話してるよ!』
と大歓迎ムード一色のメッセージが届いた。
従弟のみんなが長女が喜びそうな場所をあれこれ考えてくれているという。
なんてハートフルなの。
外堀が盤石。
離陸の音にびっくりしないだろうか。
機内で寒い時にブランケットをくださいって言えるだろうか。
椅子を上手にリクライニングして、ぐっすり眠れるだろうか。
隣のおじさんのいびきで眠れないかもしれない。
のどが渇いたらちゃんとCAさんを呼べるかしら。
乱気流に巻き込まれたら誰か「大丈夫だよ」って言ってくれるといいのだけど。
義姉の話では、日本の家族から現地の家族まで航空会社のスタッフが付き添ってくれるサービスがあるらしく、それを利用すればまったく問題ないのだという。
それでも飛行機の中では自分でなんとかしないといけないこともあるかもしれないし、想像すればするほど心配になる。
ほんとうにオーストラリアへ行くのかまだ決まったわけではないのだ。
けれど、「ああ、こうしていつかは私のあずかり知らぬ旅に行く日が来るのだな」と突然に思い知らされてしまった。
なかなか首がすわらなくて心配したあの赤ちゃんが、しっかり首を前に向けてひとりで飛行機に乗ると言っている。
おはようもおやすみもすべて「やだ」と言っていたあの2歳児が、狼狽する私をよそに「大丈夫大丈夫」と笑っている。
なんてこった。
随分、遠くまで来てしまった。
お願い遠くへ行かないで、と言いたくなるのを飲み込んで、「いいなぁ。ママもコアラ見たいなぁ」と苦し紛れに言ってみる。
もう10歳のお誕生日を迎えた長女は18歳の成人までをもう折り返したことになる。
「大きくなってもぜったいずっとパパとママと暮らす!」としょっちゅう言っているけれど、きっとあっという間に遠くへ行くんだろう。
行ったことがないところには行きたいし、食べたことがないものは絶対に食べたい彼女がここでじっとしているはずがない。
英語をひと月ばかり勉強したらオーストラリアへ行こうとするんだから。
うんと遠くまで飛んで行っていいと思っているし、ずっと近くにいてほしい。
そんな、まるで親らしいことを自分が思っていることにぎょっとする。
私こそ、この間まで中学校の廊下で正座させられていたのに。
この間まで会社のプリンターを何度も詰まらせてて怒られていたのに。
やはりものすごく遠くまで来てしまったな、と思う。