春がそこまでやってきて、あっちもこっちもお別れの気配が漂っている。
末っ子は幼稚園を卒園するし、仲のいい家族が遠方へ引っ越してしまう。
長男の習い事のコーチが退職するし、長女と長男のクラスでも転校していく子が何人かいるらしい。
さらに、この春、長女は長く続けていた習い事をひとつ辞めることにしたし、末っ子もまた、ある習い事を辞めてほかの教室へ移ることになった。
あちこちでご挨拶を重ねているこの頃。
卒園や友人のお引越しはもちろん淋しく胸に迫るものがあるけれど、これはどうにも不可避だから、こちらの裁量ではどうにもならないし、ただ粛々と受け止めるのみ。
けれど、
習い事に関してはこちらが辞め時を決めるしかないので、ほんとうに悩ましく、後ろ髪をひかれる部分もあるから難しい。
習い事って始めるほうがはるかに容易い。
子どもは期待が高まっているし、子どもが楽しければこちらはそれなりに頑張れてしまう。
それに新しいことって、疲れるけれど嬉しいじゃないですか。
問題は辞めるとき。
子どもにとっての1ヶ月ってものすごく長いし、1年なんて途方もない時間だ。
私は自分が小学校3年生の3学期を終える頃に「待って、まだ半分もあるの???そんなの一生じゃん」と思ったのを覚えている。
小学校生活が永遠に続くように思えたのだ。
子どもの1年はとても長い。
言うまでもないけれど、今、私の1年は瞬きをしているうちに終わってしまう。
ついさっき夫に「少し前にハマって観てたんだけど」と教えたテレビドラマは調べてみたらもう5年以上前のものだった。
つまり、子どもが飽きたり気が変わったりするのは仕方がないことだ。
心変わりは誰でもするし、私が「もう?!」と思う時間の何倍も長い時間を彼らは過ごしている。
私の「もう」では計れない時間がそこにある。
とは言え、彼らが「辞めたい」やら「もう行きたいくない」と言い出したところで簡単に「ではすぐに辞めましょう」とは、ならない大人の事情もある。
それは例えば費やした初期費用であるとか、退会の手続きに必要な時間であるとかその他の諸々。
そしてさらに言えば、彼らの「辞めたい」や「もう行きたくない」の重さを理解するのはとても難しい。
まだ大人ほどの語彙力もなく、自分を客観視する力もさしてない子どもたちから気持ちを聞き出さなくてはいけない。
そこへ大人の事情や勘定も加われば答えはなかなか出ないのも仕方ない。
たった今、大人の事情だなんだと書いたけれど、本音を言えば大人の勝手な感情が一番厄介だ。
つまりお気持ちのほう。
優しくしてくださった先生の笑顔。
初めてレッスンへ行ったあの日の胸の高鳴りと、少しの緊張。
楽し気に通った我が子の横顔。
夏の暑い日も、冬の寒い日も手をつないで通ったあの道。
手放したらもう二度と戻らない日々の色々が急に惜しくなってセンチメンタルになってしまう。
そして一番面倒な「せっかくここまで続けたのに」がむくむくと顔を出す。
それこそ本当に独りよがりな感情なのは重々承知している。
この成果は彼ら本人のもので、私が執着するべきものじゃないとは頭では分かっているのだけど、送迎したりお金を払ったりそれなりの代償をこちらも払っているから、つい。
いつだって後ろばかり見ているのは大人のほうで、彼らはいつもいつでも未来を生きている。
彼らは日々さくさくと活発に新陳代謝を繰り返して、古い自分を脱ぎ去って、眩しい未来へ駆け出しているのだ。
彼らにとってこれまで続けてきた時間なんてのは、大した問題じゃないのだろう。
そんなことは分かったうえで、費やしてきた時間につい想いを馳せてしまうのだ。
大人だから。
けっきょく、クヨクヨうじうじするのはいつだって大人のほう。
子どもの「辞めたい」にぶつかるたびに「さて、どうしたら」と思うことを繰り返して、数年。
この度の長女と末っ子の退会に関しては少々センチメンタルになりながらも割とすっぱりと切り替えることができたと思う。
私も少しずつ割り切りができるようになってきたらしい。
割り切ることができた材料として、一番私にとって有効だったのは「休会」。
まずはひと月ほどお休みして様子を見るというもの。
これまでにも休んだら妙にすっきりするのか「やっぱり続ける」と言われて続けることにした習い事もあれば、「やっぱり辞める」と言われて辞めたものもあった。
ひと月休んで冷静になっての「辞めたい」ならばその場しのぎのお気持ちではないわけだし、妙に説得力が増してくる。
私のほうでも辞めるシュミレーションが整うので、後ろ髪を引かれる部分が和らぐ気がする。
ひと月離れて未練もなにもないのなら辞めても後悔しないだろうし、ならば新しい彼らの赴くままに、と湿っぽい私も踏ん切りがつくのだ。
私自身がうんと我儘だから、子どもに辛抱を強いることがほんとうに肌に合わない。
好きなことしかしてほしくないし、やりたくないことに若い彼らの貴重な時間を使ってほしくない。
そもそも、木枯らしの吹く日も酷暑の日も朝からランドセルを背負って歩いて学校へ行っているというだけで、ぬるま湯に浸かって暮らしている私の千倍ほどえらいので、それ以上を求めるなんてお門違いが過ぎる。
そんな風だから、世の中には続けることの美徳ももちろんあると思うのだけれど、いつだって「始めたことは頑張って続けなさい」とはとても言えない。
いつも、「心変わりもあるよねぇ。さあどうしたら」、と逡巡してはどうにか落ち着くところを探している。
今までにも長男にも末っ子にもすでに辞めた習い事はあるけれど、辞めてしまえば意外と未練もないもなかったし。
やっぱりまたやりたいと言って出戻ったこともそういえばあった。
そんなことの繰り返しをしながら私も彼らを見習って、後ろよりも未来をよく見ることに少しずつ慣れてきているのかもしれない。
センチメンタルな気持ちは春のせいにして、もうすぐ始まる新しい季節を楽しみにしている。