「おばあちゃん、ガンなんだって」
スマホから聞こえてくる母親の声は、まるで「明日は雨みたいね」と、天気の話でもしているかのようでした。
一方で私は、祖母の病についてはもちろんですが、そのショッキングな内容と不釣り合いな声のトーンに戸惑いを隠せませんでした。
「急を要する病状ではないみたい。だけど一応伝えておこうと思って」と、いつもより少し明るいトーンで話す母親。
そこで私はやっと気付きました。
娘の私に気を遣わせないよう、明るく話してくれているのだということに。
母はいつも、自分のことは後回しでした。
家族のためにいつも家のことを最優先に考えてくれていた母。
私を含め、家族はいつもそれに甘えていたように思います。
自分最優先で過ごしていた実家での日々。
家のことは母がやってくれて当たり前で、恥ずかしながら進んで手伝いをしたこともほぼありませんでした。
父が何か予定を入れる時は、母は自分の予定があってもキャンセルしていたように思います。
自分のやりたいことや好きなことがあっても、我慢することで丸く収まる、と思っていたのかもしれません。
今思えば、母は古き良き時代の「良妻賢母」をそのまま体現していたような人でした。
大学卒業後すぐに関西から九州に嫁いで、親元を離れた母。
私を産んで数年後には父方の祖父母と同居に。
自分の両親を頼ることはほぼ無かったと思います。
遠方のため、自分の両親に会えるのも年に一回あるかないか。
だからでしょうか。
母親も、祖母の「娘」であるということを、私はこれまで、あまり意識したことがありませんでした。
私の知っている祖母は明るく話し好きで、とにかく元気の良い女性。
母親はどちらかというと控え目なタイプなので、寡黙な祖父似だったのかもしれません。
普段、あまり実母の話をすることがなかった母親。
たまに聞く祖母との思い出話といえば
「いつも姉ばかり可愛がっていた」
「感情の起伏が激しすぎて、理解ができないことが多かった」
というような内容で、祖母に対しては少し複雑な思いを抱えていたようです。
コロナ禍の影響で面会に制限があり、母が祖母に対面できたのは一度だけ。
その際も、意識レベルが低下した状態だったため、ほとんど会話はできなかったそうです。
面会の後、気落ちしているであろう母をそばで支えてくれたのは父でした。
私はそれを心強く感じる一方で、「そばにいない自分には何もできない」という無力感に襲われました。
でもきっと母親は、私よりもずっと、自分の無力感を強く感じていたと思います。
実の母親に、離れて暮らしていたこれまでも、まさに生死の狭間にいる今も、何もしてあげられない。
それは簡単には言葉にすることのできない苦しさだったのではないでしょうか。
その後、祖母の病状は悪化の一途をたどり、母親の最初の知らせから2週間後に入院。
さらに、その2週間後に亡くなりました。
病気が発覚してから約1ヶ月半、あまりにも早く訪れたお別れでした。
その途中経過を知らせる電話でも、母の口調は相変わらず穏やかでした。
そんな母の感情が私の前で唯一揺らいだのは、祖母の死を知らせる電話口。
「どうしてこんなに早く逝っちゃったんだろうね」と涙声になった、その一瞬だけでした。
その後は、葬儀の時でさえ、いつもと変わらない母の姿がそこにありました。
親子のわだかまりを解消する機会が無いまま、母と祖母はお別れとなってしまったのかもしれないと思うと胸が締め付けられるようでした。
私は自分が親になってやっと、母親のことを「母親という存在」だけではなく、一人の人間として見ることができるようになったと思っていました。
でも祖母の病状や訃報に「娘」として揺れる母の姿を見て、まだまだ自分はそれができていなかったのかもしれないと気付かされました。
もし母親が病気になったとき。
考えたくもないけれど、亡くなってしまったとき。
果たして自分は、母親のように気丈にふるまえるのだろうか。
自分の娘や息子に心配をかけないように、感情の揺れを抑えられるのだろうか。
想像してみて、「ちょっと無理っぽいな」と思ったその時、「母は強し」という言葉が頭に浮かびました。
私が母親の娘であることが一生変わらないのと同じように、母親は一生私の「母親」なんだなと、改めて母親の偉大さを思い知らされた出来事でした。
まだまだ未熟な私にできるのは、「最近どう?」なんて気軽な感じで電話をして、話を聞くことくらい。
同じ娘として、距離は離れていても、母親の悲しみにゆっくり寄り添えたらと思っています。
いつか来るその日に、後悔の無いように。