今年の夏休み、もっとも骨が折れたものと言えば、自由研究。
読書感想文も議論にあがりがちだけれど、私からしたら、読書感想文なんてかわいいものでしかない。
仕事柄なのか、読書感想文に対して私が苦手意識がないし、書き方を指南してやることも苦にはならない。
それに、なんと言ってもなにかしら書けば原稿用紙は埋まっていくのだ。
それに引き換え、自由研究ときたら。
まずテーマを決めなくてはならないし、実験そのものが実現可能かを判断しなくてはいけない。
子どもって、夢がいっぱい、希望だらけなものだから、とてつもない壮大なことだって言いかねない。
「恐竜の化石を発掘する!」
とか言われても完全に無理。
そして、その研究自体にこちらが1ミリも興味を持てないとほんとうに万事休すだ。
こちらのやる気が湧いてこない。
血眼になって探してもやる気が見つからない。
ただでさえ、慌ただしい夏休みに、気が乗らないことをする気力なんて余程の力で絞りださないと出てきやしない。
実にめんどくさい。
ことによってはこちらが車を出してやったり、買い物に付き合ってやらねばならないことも少なくないし、記録用の写真を現像に出してやるなどの算段も必要になる。
自由研究って、大人がやることがほんと、多くないですか。
ちなみに、昨年長男(当時小2)が取り組んだ自由研究は彼考案の「石のにおいの研究」というものだった。
この研究は遊びに行った先で石ころを拾って帰り、匂いをレポートするのも自力でできる上に、大きな準備も要らない大変優秀な研究だったと言える。
どうぞ真似してください。
今年は、幸いなことに、高学年だけに自由研究が課されていて胸を撫でおろしたのだけど、そもそもの存在自体が面倒くさいのだから、やっぱりすごく面倒なことに変わりはない。
また、長女は何事においても直前にならないと手を付けないところがあって、やるやると言いながら、重い腰を上げたのは8月30日だった。
こちらも後手後手にしたのは否めないめれど、なんせ面倒で。
その日は夫が休みだったので、逃げ腰な私に代わって、夫が手伝ってやることになった。
テーマは「ふわふわのパンケーキを作るには」。
長女がテレビでふっくらと膨らんだパンケーキの作り方を観て、辿り着いたテーマだった。
食いしん坊の長女らしいいいテーマだと思った。
けれど、私がこれを手伝おうと思うと、「やりたい!卵割りたい!混ぜたい!」、下の2人を猛獣使いのごとく渾身の力で手綱を引き続けなくてはいけないのだ。
左手で、めいっぱい手綱を持って、右手で長女とパンケーキを作る。
夏休みも終盤を迎えた8月30日にそんなエネルギーなんてあるはずがない。
「今日の朝食はパンケーキだね」
などと言って始まった、8月30日の朝。
私は下の2人の相手をしながら、研究の行く末を見守った。
キッチンからは絶えず、夫と長女の慌てる声が聞こえてくる。
なんせ夫もパンケーキなぞ作ったことがない。
だったら私がやればいいのだけど、長女のプランを聞くと理系的な知識や段取りが不可欠に思え、私より夫の方が適任だと思ったのだ。
覗きに行きたがる真ん中と末っ子をなだめすかして、相手をしていたけれど、素人2人のパンケーキはなかなか焼きあがらないし、下の2人は腹を空かせるし、家の中に穏やかな気持ちの人間はひとりもいなくなり、これはいけない、と、下のふたりを車に乗せて、モーニングを食べに行った。
夫よごめんね、と思いながら美味しいモーニングをたらふく食べた。
真ん中と末っ子とお店で食べながら時間を潰したあと、テイクアウトを持参して帰宅すると、どうにか、進んだらしい研究の成果がお皿に山盛り乗っていた。
夫のサポートの元8月31日の深夜までかかって、どうにか研究はまとまって、9月1日、無事に提出に漕ぎついた。
ほっと胸を撫でおろしながら、なんて忌々しい宿題なのだ…と自由研究をとても疎ましく思った。
なぜこのようなものが日本の教育界に存在しているのか。
起源はなんなのか。
意義はいったいどこに、誰のための、なんのための宿題なのか、もんもんと憤っていた。
私になにかしらの権力が備わっているならば、真っ先に自由研究を禁止する。
それはきっと多くの親子を救うに違いない。
眠れない布団の中でそんなことを考えた。
長女が息も絶え絶えになりながら、どうにか完成した自由研究が入選したと知らされたのは、9月中旬のことだった。
PTAの会議に出席するために学校へ赴いた際に、偶然知ったのだ。
長女にそのことを伝えると、長女は分かりやすく絶句して、驚いていた。
「えっ?!だって、あんな、直前に適当に......ってわけでもないけど、もう出せればなんでもいいや、と思ってまとめたのに。そんな……」
へへへと照れくさそうに笑って、何度も「いいのかなぁ」と呟いていた。
長女の研究は市の児童科学展に展示されることになったと、後日、新たな知らせが届き、家族で見に行った。
会場には市内から集まった自由研究がびっしりと並んでいた。
小学校1年生〜中学生まで、テーマも様々だ。
内容は、植物の発芽の観察記録や、標本などいかにも自由研究らしいものももちろんあったけれど、特に目をひいたのは、独創的な研究の数々だった。
兄弟にばれないように私物を隠したらどうなるか、とか、好きなラーメンの味を再現するには、とか、思わず「どれどれ」と手が伸びる。
開くと添付された写真やまとめの文章から充実した時間だったことが感じられ、おもわずにっこりしてしまう。
そういえば、夫が所用で学校を訪れた時に、長女の自由研究の入選に関して担任の先生がいろいろと話してくれていたらしい。
先生はよかった点をいくつか述べたあと
「なんと言っても最後のページのパンケーキを食べている写真がかわいくて、みなさん『いいね~!』って。それで決まったんです」
と、まさかの選考基準に「美味しそうな顔」があったことを思い出した。
数々の自由研究を見て、その意味が分かった。
自由研究の中には、子どもたちの好奇心の源泉がこんこんと湧いていて、私はそれらを浴びてなんだかとてもありがたい気持ちになったのだ。
好奇心が枯れる一方のくすんだ大人としては、彼らの好奇心が拝みたいほど眩しい。
学校は、ふわふわパンケーキの研究の根っこにある、長女の食への好奇心を見抜いたのかもしれない。
長女は本当においしそうにものを食べる子なのだ。
会場を出るころにはすっかり、自由研究の面白さに取りつかれて、夫と「自由研究を自分でもやってみたい」と言い合うほどだった。
自由研究の懐は思っていたより遥かに広くて、自由研究はその名の通りほんとうに「自由」だった。
もはや、来年の夏が待ち遠しい。
この先、私がなにかしらの権力を得ても、きっと自由研究を滅びさせることはしないので、自由研究の撲滅を願う方はどうかほかのだれかを当たってもらえれば、と思う。