長女が幼稚園に入園したのは、まだ幼保無償化前。
ちょうど、長女の入園に合わせて引っ越すことになったその町では、公立幼稚園は2年保育しかなくて驚いた。
「年少さんから幼稚園に入れたい場合はどうしたらいいんですか?」
と市役所で尋ねると
「私立の幼稚園に入れるんですよ」
と窓口の女性はクールに教えてくれた。
当時、すでに長男が生まれていて、長女は4月生まれで、入園を5歳まで遅らせることをどうしても考えられなかった私は、泣く泣く私立の幼稚園に入れることにしたのだった。
あの頃の我が家にとって、私立幼稚園の入園金も、制服代も、毎月の保育料も、すべてがあまりに高額だった。
心の準備もないまま、飛び込んできた寝耳に水な金額に、電卓を叩く手が止まらない。
けれど、何度電卓を叩いても出てくる金額はやはり同じで、数字を見るたびに、「いやいや、そんな」と目を背けたくなった。
長女が幼稚園に入園して半年ほど過ぎたころ、3人目を妊娠したことが分かった。
待望だったこともあり、それはそれは嬉しかったけれど、困ったのは長男の行く先。
2歳を迎えた彼は、私の想定をはるかに超えたエネルギッシュボーイだった。
彼はとても大人しい赤ん坊だったのに、1歳半ごろから徐々に活発になり、2歳を迎えたころ、まるで覚醒したみたいに、飛び跳ね、駆け回るようになった。
私の足では追いつけないほど足が速くてすばしっこく、駅の改札はくぐるし、スーパーに行けば見失った。
ドラッグストアでは陳列棚を倒すし、コンビニに行けば積んであるカップ麺を投げた。
私は常に、彼が安全に走り回れるところを探していなければならず、そんな暮らしの中で目に映る幼稚園はまさに、適した場所だったのだ。
遊具があって、砂場があって、広い園庭があって、周囲は高いフェンスに囲まれていて、見守る先生もたくさんいる。
これほどの恰好の場所があるだろうか。
あまりに子どもに適しているじゃないか。
当然、金銭的な部分に不安はあったけれど、これしかない、という気持ちで長女の通う園の2歳児クラスに長男を入れることになり、そして、やっぱり彼は水を得た魚のように幼稚園をそれはそれは満喫していた。
時は依然、幼保無償化前。
ふたり分の保育料は1ヶ月10万円を超えていた。
今思い返しても、よくあの難所を乗り越えたと思う。
私立には私立の良さはもちろんあって、とても充実した園生活を送らせていただいたことは言うまでもないのだけど、なんせ、出ていく金額が大きくて数字だけをみればこれはいったい……と何度でも思った。
だって、10万とか11万とか、一度にスーパーのレジで払うことなんてないわけで、それはやっぱり高額で、私の暮らしにはちっとも馴染みがないほどの金額なのに、毎月欠かさず引き落とされているのだ。
充実した保育への支払いだとは頭では分かっていても、私の暮らしには不釣り合いな数字に眩暈がした。
さて、子どもたちが無事、全員幼稚園を卒園して、公立小学校へ入学した。
私はこの日を待っていた。
憧れ続けた公立の扉をようやくくぐったのだ。
納めた税金がようやく報われるような心地だった。
これで、少し暮らし向きが楽になるだろう。
と思っていたのに、なんてこと。
気が付けば彼らはそれぞれ習い事をやるようになって、今度はそれらが家計を圧迫している。
健やかなる成長を遂げた彼らは、大変好奇心が旺盛で、やりたいことが多すぎる。
お金が有限なのは言うまでもないことだけれど、彼らの体もそれぞれひとつずつしかないというのに、なぜ、そんなにあれもこれもやりたがるのか。
ほいほいとさせてやるわけにもいかないので、それなりに吟味と精査を重ねて、「ではよいでしょう」とその都度、慎重に決めてはいるのだけど、それでもやはり、3人もいたら金額も相応に膨らんでいく。
成長期に入ると、食べる量も増えるし、靴や服のサイズアウトも瞬きをするように早い。
駆け足でお金が流れ出ていく。
緩やかな緊張感をもって家計を管理しているけれど、きっとほんの少し手元が狂ったら、ちょっとした王国が建立されるくらいの金額がゴボゴボと流れていくに違いない。
ていうか、もういっそ王になりたい。
日々、これはいったい、と思うほどお金が流れていくけれど、そんな暮らしの中でも家電たちが機嫌を損ねたり壊れたりもするし、田舎で暮らす私たちには車の買い替えも視野に入ってくる。
ほんとうにとめどない。
こんなにあられもないほど、流れていくというのに、少し先を行く母たちから、信じられないことを聞くではないか。
「中学生になるとやばいよ」
彼らは口を揃えて言う。
中学生になるとやばいらしい。
「ほんとマジでやばいから」
うん。
「中学生はやばい」
うん。
あと2年で我が家の長女も中学生になるのだけど、その「やばい」の全貌が依然分からない。
みんなほんとうに恐ろしいものでも見たかのように、ただ「やばい」と言う。
口に出したら呪われてしまう都市伝説みたいに、ただ彼らは顔を見合わせて「やばい」と言うのだ。
「塾とか」
「夏期講習なんて」
「部活が」
「いろいろあるのよ」
そんな彼らの言葉の断片を拾い集めて、「やばい」の正体を掴もうとするのだけど、それはいったいどのような金額で、どんな頻度で、定額なのか、一括なのか、具体的な姿は永遠に不透明だ。
早くだれか分かりやすいお見積書を作成してくれないだろうか。
それか大きなボードに合算を書いてどどんと大発表されたい。
心の準備を整えてその「やばい」への耐性をつけたい。
もう寝耳に水は、ごめんだ。
高校や大学に備えた蓄えはそれなりに心づもりがあったけれど、中学生がやばいなんて聞いてない。
今まさに洗濯機がエラー音を出しているし、ここ数日、長女と末っ子が「ひとり部屋がほしいよう」と言い始めた。
貯めたそばからざぶざぶ流れ出ていくのが見えていて、なんと儚いことかと思う。
こんなに儚いものを追いかけているのに、怪談みたいな「やばい」を聞かされたらちっとも穏やかじゃない。
宝くじでも当たらないかしら、と月並みなことを思ったそばから「もしも当たって大金持ったら人格が変わるかも」と不安になるので買うことすら向いていない。
だからいっそやっぱり王になりたい。
と思ったそばから、やっぱり「国を治めるなんて荷が重すぎる」と不安になるので、粛々と働くしかないのだ。