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公開 2023年12月13日  

君は君で、私は私。親が何でも分かってると思えた時間は、とうに過ぎ去っていたんだね

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子どもたちは私とははっきりべつの人間なんだな、とこの頃よく思います。


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子どもたちが大きくなって、ああ、見事にそれぞれにそれぞれだな、と思うことが増えている。

彼らが小さかったころは私の主観がもりもりに入った視線で彼らを見ていたけれど、気づけばそれぞれに違う性格をしていて、違う考え方を持っていて、私の主観ではとうてい太刀打ちできない側面がたびたびある。

なのに、親っていうのはついつい自分の主観を盛り込んでしまうことがやっぱりある。



例えば、私は子どもの頃、散髪がすごく苦手だった。

予防接種よりも、そろばん塾よりも、お墓参りよりも、なによりも苦手だった。

髪が伸びれば母は勝手に床屋を予約するし、床屋へ行けばほぼ自動的につんつるてんのおかっぱになった。

床屋から帰宅するたび、つんつるてんの頭にひどく落胆して隠れて泣いた。

少し伸びれば切られてしまう髪の毛を思うほど、私はぜったいに憧れのロングヘアにはなれないのだと、深く絶望した。

早く、早く、大人になってこの家を出て、髪を伸ばしたい…と切に思っていた。


今思うと、なんて壮大な絶望だろうと呆れなくもないのだけど、どうしても「嫌だ。髪を伸ばしたい」と言えなかったのだ。

そして40にもなろうというのに、いまだにその悲しみは胸の奥でくすぶっていて、子どもたちの散髪に関して、どうしても慎重になってしまう。

たった1度の失敗で「二度と髪を切りたくない」と思ったらどうしよう、と毎回思っている。

そろそろ髪を切ろうか、と言うのもうっすら緊張するし、お店でどんなふうにオーダーするかも緊張する。

髪を切ったあと、彼らに様子を伺うときももちろん緊張する。

今のところ、どの子も毎回納得のいく髪型になっているらしく、機嫌よく帰ってきているし、髪が伸びてくると自分から「そろそろ髪を切りたいんだけど」と言うことさえある。

どうやら彼らは散髪に絶望が紐づけられていないらしい。

それどころか「終わったら飴がもらえるんだよねー」と楽しみにさえしている。

子どもたちが大きくなるにつれ、あれ、君たちはそっちだったのね、と思うことが増えて、その度、彼らは私と別の人間だと当たり前のことを思い知らされる。

おそらく、私がもっと、慎重に考えてやるべきことは散髪なんかではないし、もっと他にあるんだろう。

私が鈍感に取りこぼして彼らをがっかりさせたり、傷つけたりしていることはきっとある。

もちろん、決して傷つけたくはないけれど、なんせ、私も彼らもそれぞれに別の人格だから、想像が及ばないところがいくらだってある。


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先日、長女が「昨日の夜こっそり泣いちゃったんだ」と言ったので、あの事かと反省した。

前日は長男と長女が喧嘩をして私に叱られていた。

もう少し双方の話をよく聞いてから叱るべきだったかもしれない。

きっと理不尽な部分があって悔しくて泣いたのだろう。

「ママも気になってたんだよ。ちょっと理不尽だったよね。もっとふたりの話をよく聞くべきだった。ほんとうにごめんね。悲しかったよね」

と謝ると、

「え、そんなことは気にしてない。だって私も悪かったし」

長女はけろりと言った。

そんな。

では、いったいなにに泣いたのか。

「あのあと、むすっとしてしまって、よくない態度だったなぁって思ったら悲しくなっちゃって。それで泣いちゃった」

長女は照れくさそうに笑って、反省の弁を述べた。

恥ずかしいことだけれど、11歳の私は自分が不機嫌になったとて絶対に反省なんてしていない。

それどころか、階段をどすどす登って、これ見よがしに不機嫌をまき散らしたに違いない。

確か、姉が中一のときなんて母にさらりと一言注意されただけで、箱ティッシュを投げつけていた。

ちなみに、長女は「不機嫌になった」と反省していたけれど、それはほんとうにささやかな不機嫌で、私にとっては気にもならないほどの小さな小さな不機嫌の赤ちゃんでしかなかった。

私はなにひとつ不機嫌をぶつけられていない。

今思い返すと、いつもより少しだけ早く寝室に引っ込んだような気がする…という程度。

あれが不機嫌だとするならば私が、夫に「なんで私の紅茶を勝手にぜんぶ飲むの」と詰め寄っているあれはなんだろう。

脅迫?恫喝?もしかして犯罪?

確かに小さい頃から、激しく泣いたり怒ったりする子ではなかったけれど、あらためて長女があまりに私とまったく違う人間だった。

話を聞いた後、子育てっていうのは自分が普通に暮らしていたら仲良くならないような人と出会うことだなあ、とお風呂を洗いながらしみじみ思った。

長女のように温厚で穏やかな人間と、ひねくれものの私が同じクラスにいたとして、きっと仲良くなっていないだろう。

長女はきっと、かわいいぬいぐるみのキーホルダーを鞄にぶら下げて、小さなお弁当箱を両手で包んでいたあの小柄な彼女と友達になったに違いない。

私は空気が澄んだその机をまるで遠い国でも見るような気持ちで眺めていた。

彼らはそのくらい私から遠かった。


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子どもたちは3人ぞれぞれ、ほんとうに別々の人格で、それはもちろん私でも夫でも誰でもなくて、それぞれにオリジナルだ。

例えば、まだ2歳や3歳の頃は、長女はお出かけの心の準備に1時間くらい必要だとか。

長男はお昼寝は1時間20分までにしないと夜寝ないとか。

末っ子はいつだってひらひらのスカートを履かせておけばご機嫌だとか。

そういう私が彼らよりも熟知している取説が存在していた。

私は、それぞれに適したお世話をして家庭内をブンブン回して、彼らは私の指揮棒の行く先で踊らされていたのだ。

だから、うっかり私は、彼らのことはなんでも分かったような気持ちになっていたけれど、彼らが大きくなってきた今、もう私の指揮棒なんてなんの役にも立たない。彼らは彼らを生きていて、話を聞いては「そんなことを思うのか」と驚かされる。

私では思いもよらない価値観が、彼らそれぞれの中に確かに芽を伸ばしていて、直面するたびに驚いたり感心したり、よくよく考えたりしている。

私とは全く別のそれぞれの彼らを私はどれだけ理解できるのだろう、とよく思う。

想像力をうんと働かせて考えてみるのだけど、いつも「私以外の適任がきっといるのでお任せしよう」と思うに至る。

私がなんでも分かってあげられる時代はとうに過ぎ去っていて、彼らはきっと「親なんてなにも分かってくれない」と思いながら世界と手をつないでいくんだろう。

そんな未来を想像しながら、そうか、人はそうして外の世界へ羽ばたいていくのだな、と思ったりもする。

散髪からずいぶん話が飛躍したけれど、ほんとうに私が気にするべきところは散髪なんかではなく、私は気の合う人たちと集って暮らしているのではなくて、ぜんぜん違う価値観をもっているそれぞれと暮らしているということ。

君は君で、私は私で、ああそうか、と心の中で唱えている。

彼らはそれぞれにそれぞれで、私はまだまだ彼らを理解する旅の途中にいるらしい。


※ この記事は2024年12月13日に再公開された記事です。

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