「いってきます」
と夫に声をかけ、家を出た。
長らくフリーランス一本で働いてきたが、ふと思い立ってパートを始めることにしたのだ。
何だか「通勤」がしたいような、「決まった時間働いて賃金をもらう」ということをやりたいような気分で、思い立った日にネットで仕事を探し、応募して、面接に行き、受かってしまった。
ショッピングモール内の書店のレジ打ちである。
レジ未経験の38歳の挑戦。
ささやかな挑戦だな。
でも、今のレジはありとあらゆる決済方法に対応していかなければいけない。
なかなか大変なはずだ、と思っていたが、1~2か月もすると何となく手が勝手に動くくらいに覚えてしまった。
私の算数嫌いな性質上、金銭のやり取りがメインとなる仕事は絶対にやらない方がよかろう、とずっと避けてきた仕事を、38歳にしてようやく克服できたようだ。
ミスはする。私は多分ミスが多い。
でも何とかなるもんだ、ということも学んだ。
レジ打ちを無心でこなしていると、不思議な感覚に陥ったりすることもある。
レジと私が同化していくような感覚で、自分の意識が曖昧になっていく様子を味わうこともできる。
お客さんとレジの間で通訳をしていたら、いつの間にか自分もレジの一部になってしまったような……。
こんな感覚に気を取られているので、ミスが多いのかもしれない。
そんなことを考えながら電車に揺られて数駅だけれど、本を開く。
淡々と日常が描かれた日記のような書物を読むのが好きだ。
「何時何分に家を出る。〇〇駅に向かう。誰々さんと打ち合わせ。そのままランチ」とか、何でもないその人の日常に触れるような文章を読むのが楽しい。
ルーティーンを繰り返しているだけのように思えて、実は毎日ちょっとずつ違う。同じ日は二度とない。
それを感じながら生活してみたい。
私も誰かの日記の登場人物のような、ルーティーンのある生活がしたい。
私は日記を書き続けられるタイプじゃないのだけど、せめて日記みたいな何でもない生活がしたい。
そんな気持ちもあって、パートを始めたところもある。
パートは週4日、夕方から夜まで。
午前中の集中できる時間帯はフリーランスの仕事の方に費やし、ダレてくる午後は外に働きに出る。
これもなかなかいいバランスである。
夫はワンオペで、娘も娘で忙しい時間帯を頑張ってくれている。
私は、パートで息抜きしているようなところがあって、その間夫にワンオペを課すことになるのを心苦しく思っていた。
夫は夫で、なぜか「もっとフリーランスの仕事に専念したいだろうに、家計のためにパートしてくれている」と認識していて、お互い申し訳なく思っていたことが判明した。
夫は私がパートに出ることをありがたいと思っていたのに、私が勝手に「1人だけ家事からも育児からも解放されたところでリフレッシュしていて申し訳ない」と思っていたらしい。
申し訳なく思う必要などなかったのだ。
ショッピングモールに入館するときは、外の蠢いている空気が、ドアを閉めた瞬間にピタリと止まる感じがする。
この瞬間から、私は大きな何かの一部になるように思う。
更衣室で着替え、トイレをすませ、店舗へ。
いよいよ外面になって入店し、何時に入っても「おはようございます」とあいさつをする。
荷物を置き、タイムカードに打刻して、引き継ぎノートをチェック。
事務所内では、常に軽い冗談が飛び交っている。
私もそれに混じったり混ざらなかったりして、売り場へと向かう。
早番さんと交代してレジに立つ。
私の自我はなりをひそめて、お客さんとレジの仲介役になっていく。
あなたは電子決済がしたいのね、あなたは図書カードで払いたいのね、
紙袋が必要かしら?配送がご希望でしたね、
この本がどこにあるのかわからないのね、OK探して来るわ、
あなたのポイントカードは失効しているみたい、今はアプリのダウンロードで再発行が可能よ、
この雑誌の予約は受付終了なの、また発売日に問い合わせてみてね、
取り置いている本があるの?名前を教えてね、
この本はプレゼントなのね、値段は隠す?……
もちろん実際は、こんなにフランクに話しているわけではないけれど、レジ内のさまざまな業務を一つ一つこなしていくのはこんな気分だ。
楽しい。いろんな人がいる。
書店は衰退の一途をたどっていると言うけれど、本当だろうか?と思う。
ここにいると、書店を必要としている人がこんなにいるじゃないか、と感じる。
子どもの頃、タバコ屋の中にいる人に憧れた。
大人になったらああいう仕事がしたい、と思った。
いつもの場所で、いつもの風景を、小窓から眺めて過ごせたら楽しいだろうな、と思った。
でも、あれは代々タバコ屋をやっている家に生まれないとできそうにないな。
でもどうにかしてなれないだろうか。
……と、タバコ屋になるための方法を空想したものだ。
でも、大人になると、その仕事は無くなっていた。
書店の仕事も、いつか無くなってしまうのだろうか?
親に見守られながら図書カードを出し、自分で選んだであろう児童書を購入したこの小さなお客さんが、大人になる頃、書店のレジには人がいるだろうか?
そんなことを考える。
書店は、今のCDショップやレコード屋のような存在になっているかもしれないな、と思う。
それは日常の中にあるというよりは、「わざわざ行く場所」になっていて、今とはどこか趣が変わっていることだろう。
「はい、ありがとう言って」
「ありがとう」
親に促されて、小さなお客さんがたどたどしくお礼を言ってくれる。
レジの一部だった私は、すかさず人間に戻って
「こちらこそありがとうございます」
と返す。
やっぱりなかなか本屋さんは無くならないんじゃないか、という気もする。
働いていると、時間はあっという間に過ぎる。
閉店の時間になって見回りをし、レジ締めをし、閉店業務を終えて、打刻して帰路につく。
私はまた数駅分だけ本を読み、駅に着くと、最寄りのスーパーでビールを買う。
スーパーのレジの人にピッと商品を読んでもらうと
「3番のレジまでお進みください」
と促され、ランプの点灯している3番のレジに進む。
そこにはモニターがあって、現金、クレジット、コード決済を選択する画面が出ている。
私はコード決済を選択し、電子マネーのバーコードを表示したスマホを、読み取り機にピッとやる。
私の後に来た人も、4番のレジで同じようにピッとやる。
ここのレジは、最初は店員さんが決済までやっていたが、レジ数が少なく毎度長蛇の列になっていた。
今は、この半セルフレジと言ってもいいような決済機の導入により、長蛇の列は解消されている。
私は流れに押し出されるようにスーパーを出る。
便利になってゆくもんだ。
だんだんついていけなくもなりそうだ。
今日本屋に来たあの小さなお客さんは、まだセルフレジでは買い物できないだろうな。
できたとしても「ありがとう」とは言わないだろう。
たばこの自販機に「ありがとう」と言う人もいない。
別にそれを寂しく思うわけでもない。
変わらないものなどないし、それはやがて当たり前になっていく。
人とのコミュニケーションの機会が奪われるように見えて、実はきっと別のところで、また違うコミュニケーションが生まれているのだ。
いつか無くなってしまうかもしれない。
けど、レジ打ちは好きな仕事だ。
私の日常に「レジ打ち」を組み込むことができて嬉しい。
私が働いているうちは、どうかこの仕事が無くなりませんように。
夜風を浴びて自宅へ向かう。
「ただいま」
と、ドアを開ける。