娘が4歳くらいのころ。
私は一念発起し、あることに着手していた。
「押入れの整理」である。
そこには、私の昔の手帳やスケッチブック、本が段ボール5箱分眠っていた。
そもそも、その押入れのある部屋自体が物置になっていた。
本来、段ボールの中身がきちんと収まるはずの本棚は、ガムテームとかよく分からない書類とかがとりあえず積まれて置いてあって、デッドスペースの多い無駄な大物家具として部屋の隅に佇んでいた。
この本棚をまず、空にし、段ボールの中に眠っている本たちをちゃんとあるべき場所にしまってあげること。
これが、その日の任務だった。
なぜ、その日それをやろうと思ったのかは分からない。
物事は、やるか、やらないか、どちらかだ。
私は引っ越してきてから4年間、「やらない」を選択していた。
いつかやる。でも今じゃない。
このやらないを選択する日々も、いつかやる「その日」につながっているのだから、何もやっていない訳ではない。
時間は刻々とその日に近づいていき、とうとうその日、
「あ、やろう」
と思ったのである。
この家に引っ越してきたのは、娘がまだお腹の中にいた頃。
夫と2人で住んでいた都心の狭いマンションから、家族で住める広さと、なんとか払える家賃を兼ね備えた部屋を求めて、不動産屋をまわりながら一駅一駅下ってきた。
そして見つけた部屋は、各駅停車しか停まらない駅の近く。
古いけれどリフォームされて、水回りも新しく、私たちにちょうど良いと思えるマンションだった。
徒歩圏内にスーパーとドラッグストアがあり、生活するには困らない。申し分ない。
それまで住んでいた場所は、個人経営の居酒屋やバーが立ち並んでいて、私は夜、よく1人で飲み歩いていたものだ。
でも、もう私の生活に、居酒屋やバーは必要ない。
必要なのは、スーパーとドラッグストアだ。
私は、母親という生き物になると思っていた。
2人分の荷物は、そのマンションに悠々と収まったが、これから増える家具もある。
子どもができたのだから、何かと物は増えていくだろうと予想された。
それで、とりあえずすぐに使う生活用品を出しやすいところに整頓し、すぐに使わないと思われるものは押入れの奥深くに、段ボールのまましまい込まれた。
私の本も、そのうちの一つだ。
楽しげな街角がない寂しさに、気が沈む日もあった。
以前住んでいた場所で、私はおしゃれなバーの常連のうちの1人だった。
他のお客さんもみんな知り合いで、時にはお店を手伝ったりもした。
みんなでカラオケにも行ったし、お花見もした。
楽しい時間を過ごしていた。
一方、ここは縁もゆかりもない、マンションの立ち並ぶ住宅街だ。
知り合いもいない。
でも私は、これから母親になるのである。
寂しさを噛み締めながら、赤ちゃんを迎え入れる準備に日々に奔走した。
そして出産。
可愛い女の子が生まれ、私は想定通り母親になった。
初めての子育ては、寂しいと思う暇などなかった。
常に寝不足で、1日の区切りも曖昧になり、やることに追われているのに何もできていないと感じる日々。
買い揃えていたベビー用品は、使わない物が山ほどあり、必要なものは全然なくて、また買い足しにいく。
そうやって動いているうちに、町の風景もだんだんと違って見えてきた。
公園が多く、歩道も広い。
徒歩圏内に小児科も子育て支援センターもいくつかあり、通っているうちにママ友がたくさんできた。
お酒の好きなママ友と集まって飲んだりもした。
子どもと一緒に生活するのにはこの上ない場所だった。
1人で飲み歩いていた時代も楽しかった。
でも今も楽しい。
子育ては発見の連続で、退屈に思う暇などない。
毎日が愛おしく、なんとか形に残しておきたいと、育児漫画も描き始めた。
私は母親という生き物を満喫していた。
それから4年が経ち、冒頭のその日がやってきたのである。
ただ「やろう」と思っただけだと言ったが、こうやって振り返ってみると、やはり「余裕ができた」のだとも言えそうだ。
娘も保育園にいき、育児漫画を描くサイクルにも慣れてきて、時間と心の余裕ができた。
それで、物置になっている部屋や、デッドスペースとなっている本棚をちゃんと整頓してやろうという気になったのだろう。
引っ越しの際に使ったちょっとしたものがそのまま置かれたような本棚を整理し、押入れの奥底に眠る段ボールを引っ張り出して、ほこりを拭き取りながら一冊一冊並べていった。
この本は真ん中の段、この本は一番上の段。
自分の中で決めていた並べ方を思い出しつつ、処分する本をまた段ボールにしまいつつ……
思い入れの深い本をパラパラとめくってみて、好きな文章を読み直した。
痺れる。やっぱり好きだ。
久しく味わっていない感覚だった。
それから、通っていた美術予備校の夏期講習のパンフレット。
私の油絵が表紙になっている。大事にとってたんだな。
高校生の頃に使っていたスケッチブックも出てきた。
謎の落書きがいっぱいあるし、みっちりと文字が書き連ねられたページもある。
これは世に言う黒歴史ってやつか、と思って読んでみると、なかなか良い。
あの頃の鮮やかな心象風景が蘇ってくる。
そうだ、私は文章を書くことも好きだったのだ。
本を並べ終わる頃、私は自分の手先足先まで、しっかりと血が流れていることを感じていた。
大きな勘違いをしていたことに気がついた。
私は、母親という生き物ではなかったのだ。
なんといえばいいだろう、その本棚を見て、私は
「そうだ、私ってこういう奴だった」
と思った。
全く予想していなかった。
ただ部屋のデッドスペースを整頓しようとしただけ、のつもりだった。
押入れの下の段を占領していた本をちゃんと本棚にしまって、空いたスペースに使わなくなったベビーサークルとかバウンサーを収納しようとしていただけである。
「自分の本を本棚に並べる」というその作業は、ありきたりな言葉になってしまうけれど、自分を取り戻す作業に他ならなかった。
そういえば、最後に絵本以外の本を買ったのはいつだろう?
あれ、私、今まで何やってたんだっけ?
自分が好きでやってきたこと、読んできたものの存在をすっかり忘れていた。
それこそが、私を作ってきたというのに。
母親であることだけを拠り所にして、この先の人生を何十年も越えていくつもりだったのか。
それは、なんと頼りないことだろう。
そういえばそうだった。
私はママ友の間で酒好きと認識されていて、それは間違いではなかったし、そのおかげで飲み友達もできて、楽しくやっていた。
けれども、なんだっけな?私ってただの酒好きな人間なんだったっけ?という気持ちが、どこかでしていた。
そんなもんだと思っていた。
いろんな経歴を持った人が、ただ「同年代の子どもの親」という共通点だけでコミュニケーションを取るのだ。
これまでの半生を語るわけにはいかない。
着る服も、なんとなく当たり障りのない服を着て、当たり障りのない会話をする。
それはとても社会的な営みだ。
でも、私を作ってきたものは、私が好きで選んできた物のはずだ。
これまでやってきたことが私を作っているはずだ。
それをすっかり忘れていたことに気がついた。
目の覚めた思いで、近くにあった本を手に取った。
さほど印象深い本ではなかったが、1ページ1ページ、めくって読んでみると、その文章の美しさに震えた。
それは以前読んだ印象とは、全く違うものだった。
ああ、そうか、空っぽな4年間を過ごしてきたわけではなかったんだな。
育児に奮闘しながら母親をやるのも、私自身であることに違いはないのだ。
それから数日、その本を読み終わってしまうと、アプリで読める著作権の切れた本をいくつか読んだ。
以前読んだことのある本も、感じ方がまるで違っていることに気がついた。
私はようやくこの本の面白さを感じ取れるようになったんだな、と思った。
アプリは便利だ。
娘を寝かしつけている暗い寝室でも読むことができる。
でも紙の本を読みたいな、と思って書店にも繰り出した。
本に没頭しているときの脳の状態の心地よさ。
そうだ、私はこういう世界を持っていたんだった。
好きな芸能人やアーティストもいないし、体良く答えられる趣味もない。
これからも好きなことや、趣味を聞かれたら、とりあえず
「お酒」
と答えるだろう。
私には人に伝えやすいような趣味はない。
読書とは言わない。私の中で、読書は趣味ではない。
でもこの辺の気持ちを一言ではうまく説明できないので、とりあえず「お酒」と言っておく。
同じ答えでも、自分の中に好きな世界を持っているのと、いないのとでは、この先の生きやすさのようなものが随分変わってくるんじゃないかと思う。
私がそれをすっかり忘れてしまっていた4年間は、決して空白ではない。
その4年間が、以前は面白さを感じ取れなかった本を、楽しく読める「今」に繋がっている。
自分の好きな世界を携えて、この先も酒好きなママとしてやっていくつもりだ。