「本を読む子どもに育てるには、大人が本を読む姿を見せるのがいい」というが、本当だろうか。
うちの娘はあまり本を読まないのだけど、私は確かに娘の前で本を読まないので、その点ではその通りだと言える。
しかし、こうは考えられないだろうか?
親が本を読んでいても邪魔をしに来ない子どもというのは、そもそも本を読める素地があるのだと。
親が本を読んでいる時間を受け入れ、自分も1人の時間を楽しむことができるということは、すでに「本を読む土壌」が整っていると言えるのではないか。
そして、問うべき問題はもうひとつある。
そもそも本を読ませるべきなのだろうか?ということだ。
読書は、なんとなく良いイメージがあるけれど、「本を読まない人」と「本を読む人」の人生の良し悪しは、一体何で測るのだろう?
捻くれたことを言いたいわけではないんだけど、「大人が本を読まないから子どもが本を読まない」という意見には、一部分で賛同することはできるが、全てそうだとは言えないはずだ、ということを改めて記しておきたい。
また、本は読まなければいけないものではないはずだ、という意見を持っていることも同時に宣言する。
……と前置きした上で、私は娘が本を読む楽しみを見つけてくれたら嬉しいな、と思っている。
私が初めて小説を読めたのは、小学校2年生の時のことだった。
子ども向けの恋愛小説だ。
台所では母親が晩ごはんの支度をしていた。
時刻は夕暮れで、窓の外からオレンジ色の光が室内に差し込んでいた。
読み終わったあと、私はそのことにしばらく気が付かなかった。
物語が終わったのだと分かった時、それまで感じたことのなかった充足感と寂しさを味わった。
物語の世界が終わってしまって、現実の世界に戻ってきたのだけど、体の半分はまだ物語の世界にいるような、不思議な浮遊感を楽しんだ。
そして、初めて全部読めたということが、とてつもなく嬉しかった。
はぁ、とため息をついて本を閉じ、ゴロンと横になった。
本を読むって楽しい、と心から思った瞬間だった。
今私は書店でパートをしているので、日々、本を買っていくお客さんを目にしている。
大人から子どもまでみんな、本を読む楽しさに浸ろうと、各々選んだものを買っていく。
私はなんとなくいつも、これからそのお客さんがその本を読む姿を想像している。
何冊もまとめて買っていく人は、これからどっぷりと読書の世界に浸かるのだろう。
文庫本を1冊だけ買っていく人は、通勤通学の楽しみにしているのかな?
まだ小学生くらいだけど、大人向けの小説を買っていく子もいる。
かと思えば、児童書を何冊も買っていく大人の女性もいる。
この人は子どもへの贈り物だろうか、いやいや、案外本人が児童文学が好きな場合もある。
どちらかというと、実用書や参考書が買われていくことが多いので、楽しみばかりでもないのだろうが……。
分厚い参考書を何冊も買っていく学生さんには、心の中でエールを送る。
いずれにせよ、読んだ本の記憶を携えて、人生を歩もうとしているわけだ。
いわば、装備。
社会という荒波に立ち向かっていくために必要な装備を身につけている、それが本を読むということなのではないだろうか。
いや、そんな考えで本を読んでいるわけではないか。
私が初めて小説を読み終わった時の感覚は、よし、これで装備がひとつ増えたぞ、というものではもちろんなかった。
けれど、本を読んでいる間に私は主人公と同じような経験をし、読み終わった後にはそれが私の思い出のひとつになる。
本の思い出を携えて、その後の日々を送ることになるのだ。
装備、という言葉は少し堅いけど、まあ言えなくもないんじゃなかろうかと思う。
そう考えると、本を読まないという人は、装備ゼロで人生を歩むことになるのかもしれない。
そうなると、やはり本は読んだ方がいいということになる。
けれど、本を読むことだけが装備を増やすわけではないのだとも思う。
友達と遊んだり、スポーツを楽しんだり、音楽を嗜んでみたり。
なんでも、その人の人生の装備になると思う。
勉強も装備だし、遊んでばかりいたとしても、それもまたそういう装備なのだと言えるだろう。
勉強もしてこなかったし、人との関わりも少なかったという人も、孤独に耐えうる装備を備えていると言えるのではないだろうか?
なので、やはり本は「読まなければいけない」というものではない。
でも、本を読むことが簡単なのだと思う。
1人でできるし、好きな時間に、どこででもできる。
利便性が高く、ほとんど誰でもできるということで、読書が万人に薦められやすいだけの話だ。
本を読むのはいいことだけど、それは本を読まなければいけないということではない。
「本を読む」という選択肢と「本を読まない」という選択肢では、「本を読む」の方が獲得するものが多いように感じられてしまうが、実は「本を読まない」という選択肢でも「本を読まない時間」というものを獲得している。
そして、それはどちらがいいとか悪いとか、比較することはできないのではないかと思う。
さらに言うと、読書を「やらなきゃいけないこと」の引き出しに入れてしまうのは、けっこう不幸なことなんじゃないかとも思う。
「やらなきゃいけない」と感じながらやるより、「やりたいからやる」と感じながらやる方が、幸福だと思う。
娘に読書の楽しみを知ってほしいと思いつつ、「やらなきゃいけないこと」にはしてほしくない。
自然と興味がわいた時に、本を手に取ってほしい。
そんな考えから、私は娘に読書を強要はしないことにしている。
娘に「本を読め」といった旨の言葉を投げかけたことは一度もない。
そんな私だが、自分が本屋に行きたくて家族で立ち寄った時に、娘に
「何かひとつ本を買ってあげるよ」
と言ったことがある。
「なんでもいいの?」
と聞いてくるので、ここは大人の意向を悟られてはいけないと思い、
「なんでもいいよ」
というと、
娘は絵の具セットのついた塗り絵を選んだ。
本じゃないじゃん!と思いつつ、今娘はこっちの方が好きなのだ、娘の興味を奪ってはいけないと思い、私の選んだ本と、娘の選んだ絵の具セット付きの塗り絵を持ってレジに並んだ。
娘はまだ読書の楽しみには出会っていない。
と思っていたら、こんなことがあった。
私のパートと夫の仕事がどうしても重なってしまって、夜まで娘にひとりで留守番をしてもらわざるをえなかった日。
まあ、そろそろ留守番もできるようになってほしい年齢ではある。
本人の了解も得て、留守番をしてもらった。
仕事が終わってスマホを見ると、夫からメールが来ていて、案外早めに帰れたようで安堵した。
私が帰宅すると娘はまだ起きていて、いつもの調子でおどけていた。
「何して過ごしてた?」
と聞いたら
「絵本読んでた」
という答えが返ってきた。
「絵本読んでたの?」
「うん、お布団の部屋に座って順番に読んでいって、読んだ本はこっちに置いて、それがこの辺まで高くなった」
留守番をしていた時間に、娘はひとりで絵本を読んでいたのか。
今まで娘がひとりで絵本を読む姿を、私はあまり見たことがなかった。
最近は「絵本読んで」とも言われなくなってきていた。
学校の図書室からも本を借りてきたこともなかった。
その娘が、ひとりで留守番をしている時に、絵本を読んでいた?積んでいくほど?
それは、寂しさを紛らわせるためだろうか?
娘はもう、「本に逃避すること」を知っている、ということなのだろうか?
私は感慨深く思いつつ、
「そうなんだ」
と答えた。
そういえば、本はひとりの時間を楽しむものである。
これから娘が大きくなるにつれて、ひとりで過ごす時間は増えるだろう。
その時に、本を読むという選択肢を、娘はもう持っていたんだな、と思った。