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公開 2015年10月29日  

死ぬ気で受験勉強して東大入った途端に"勉強"が通用しないだなんて!

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私の周りでもお受験モードが高まっています。「あの塾の進学率いいらしい」「合格したあの子の家はこういう勉強法をしていたらしい」そんな声を聞くと少し複雑な気持ちになります。今日はなぜ複雑な気持ちになるのかについて自分の経験をもとにお伝えしたいと思います。


お受験モードに感じる複雑な気持ち

最近、娘が大きくなり周りにもお受験ムードが漂ってきました。

「この塾は合格率が高いらしい」
「合格した●●ちゃんの家では、こういう勉強法をしていたらしい」

そんな話題がちらほら耳に入ってくるようになり、少し心が痛むような複雑な気持ちで聞いています。

今日はその複雑な気持ちをなぜ私が持ってしまうのかという点について、少し私の話をさせてください。

東大に入るまで、「勉強」が私の価値の全てでした

小学生の頃、中学受験に向けた塾に通っていました。進学塾にはありがちですが、席順は成績順。テストが終わった次の週に、席順が教室の入り口に貼りだされます。

結果が貼り出されるその日は行く前から緊張し、おなかが痛くなるほどでした。期待と不安を抱えながら貼り紙の前に立ち、自分の名前を探します。無事に自分の名前が1番前の列にあれば胸がはずみ、誇らしい気持ちになりました。帰って親に報告するときにはなんて言おうかな…そんなことを考えながら笑顔で席につく余裕もあります。

反対に自分の名前を1番前の列に見つけることが出来なかった時。

手には冷や汗をかき、自分への後悔の言葉が次々と頭をよぎります。
「お前、順位落ちてるじゃん」友達にそう思われているのではないか…そんな不安から教室に入って友達と談笑をしようにも、笑顔がひきつってうまく笑うことができなかったこと。そのあとの授業が全く耳に入ってこなかったこと。今でも覚えています。

中学や高校に進学したあとも、同じようにテストはやってきます。

勉強するということに全く迷いはありませんでした。楽しかったですし、何より結果表の順位が上がれば上がるほど嬉しくもありました。自分の頑張りを認めてもらっている。そう感じることができるのが私にとっての勉強だった気がします。

そして、高校2年生になり、進路希望を出すことになりました。

「やるなら1番が上がいいに決まっている」

そんな気持ちから、私は迷わず進路希望表に「東京大学」と書きました。

東大に入ってから価値観が崩壊しました

受験勉強の末、無事東京大学に入った私は、これまでの価値観にそって順風満帆に生きていけるものだと思っていました。

しかし、私を待っていたのは、これまでの「勉強」とは全く違う学びの形である「研究」でした。

何を研究したいのか、何を新たに明らかにしたいのか、自分はなぜをそれを重要だと思うのか

指導教員から日々問われる日が続きます。

それは、はっきりとした自分の意志を求められるだけでなく、決められていたものを覚えるだけの勉強には「価値がない」という明確な価値の転換宣言でした。

またゼミに集まっている学生はそれぞれ違うテーマを研究しているため、その進捗もそれぞれです。

他者と比較し順位をつけることで自分の価値を感じていた私にとっては、「戦う相手がいない」状態となり、私のこれまでの価値規範は脆くも崩壊しました。

決められたことを決められたように機械のようにこなす、周囲の人が「良い」と言っている大学を目指す、他者と比較することで自分の価値を決めるという価値観にどっぷりと漬かっていた私は、自分で新しいものを思考し考え出す、誰からも期待されず自らの意志で進む方向を決める、他者との比較ではなく自分で価値を決定していくという価値観の変化についていくことができなかったのです。

この研究やりなさいって言ってくれればうまくやるのに
この研究は価値があるよって言ってくれれば安心できるのに
みんな同じ研究してたら評価が明確になるのに

当初はいいわけばかり繰り返していた私ですが、そのいいわけが通用しないことに気付いたとき、私ははじめて分かったのです。私にとってのこれまでの勉強とは、「思考を必要とせず、意志を必要とせず、他者に評価されるためだけのものだった」ということにです。

こうしてやっと私は自分自身の小・中・高生活を振り返ることができました。

偏差値という軸があまりに巨大すぎて見えていなかった私の目の前には、サッカー、ピアノ、イラスト、プログラミング、書道、コミュニケーションなど本当に多様な軸があったこと。

そもそもある軸の上に人が順番に並んでいて、優劣によって価値が決められることが唯一の評価ではないこと。

そんな当たり前のことに気付いたのが、ようやく大学を卒業する頃だったのです。

大切なのは勉強への意味づけ

お受験トークに熱が入るママに言いたいと思います。

その塾での勉強、本当に思考を必要としていますか?
意志を必要としていますか?
必要以上に他者評価を気にするものになっていませんか?

勉強=無意味といいたいのではありません。
やっている本人やそれを見守る親が勉強にどんな意味づけをするかが重要なのだと思うのです。

そこに思考、意志、自分なりの評価軸が入り込む隙間のないものとして勉強を位置づける限り、その勉強が生み出すのは、「自分で考えられない、自分で決められない、他者評価を異様に気にする」中身がからっぽの昔の私ような人間だと思います。

勉強以外のところで、親が本人の思考や意志、評価軸を尊重できている場合には問題ないと思っていますが、親が受験に熱心になるあまり、「勉強」がその子の唯一の価値判断の場となってしまっていないかと、お節介ながら、お受験トークを聞いていると心配になってしまうのです。

あなたが子どもにさせようとしている勉強、もう一度その意味を考えてみてほしいと思います。

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