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公開 2016年04月25日  

「母親は突然いなくなった。それでも僕は、いまが幸せ」〜施設で育ったユウヤの物語〜

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様々な事情から親と一緒に暮らすことができない子どもたちが暮らす児童養護施設。そこで育った「僕」、ユウヤ。これは、私が彼に取材を行って書いた実話です。


目次 エピソード1:「ある日、母さんがいなくなった」
エピソード2:「戻ってきた母さんと始まった“家族”の生活」
エピソード3:「ある“友だち”がいなくなってしまった」
エピソード4:大学生活と大きな一歩
エピローグ:僕が伝えたい事

エピソード1:「ある日、母さんがいなくなった」

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母さんがいなくなったのは、僕が2歳の時だった。

当時の僕に告げられたのは、母さんが「いくじほうき」というものをしたこと。

そして幼かった僕を父さんは1人で育てることができず、これから僕は「じどうようごしせつ」というところで暮らすことになるということだった。

「じどうようごしせつ」には、僕みたいな境遇の子どもがたくさん暮らしていて、みんなで一緒に生活していた。

朝起きて歯を磨き、顔を洗い、みんなで「いただきます」をする。幼稚園や小学校に行って勉強をする。

帰ってきたらみんなで晩御飯を食べて、上級生は率先して片づけをする。順番にお風呂に入って、みんなで掃除だってする。

こうやってみるといたって「不自由のない生活」に見えるかもしれないが、だんだんと自分が「普通と違う」ことが分かるようになってきた。

僕が暮らしていた施設では、「放課後は施設の中で過ごす」というルールがあった。当然、放課後に友だちと一緒に遊びに行くのは禁止だ。

「あの子はどうせ来ないから誘っちゃダメ」「あの子はノリが悪い」

そんな暗黙の了解がクラスに広がっていく。

僕は毎日、ひとりぼっちで遊ぶことになった。

それだけじゃない。もっとつらかったのは遠足の時だ。

周りを見渡すとたくさんのママが楽しそうに笑いながら、子どもの手を引いている姿が目に入る。

でも、僕の手を握っているのは担任の先生だった。

「どうして。」

考えても仕方がないことだと分かりながらも、自分の置かれた状況に納得いかなかったし、恥ずかしかった。

「僕は、いらない子なのかもしれない」

学校や施設でいたずらを繰り返しては、そのたびに周囲の大人に怒られた。けれども、今思えばそうすることで、

「誰かの目にうつる自分」

を感じていたかったのかもしれない。

そんな僕に転機が訪れたのは、本当にふとした瞬間だった。

当時僕の周りでは、逆上がりに挑戦するのが流行っていて、「できるヤツはカッコいい!」という雰囲気があったのだが、僕はなんと最初のチャレンジにして、難なく逆上がりを成功してみせたのである。

遠くから見ていた子どもたちが近寄ってきて、

「お前、やるじゃん」

とニカッと笑った―それが僕に友だちができた瞬間だった。

「できない」より、「できる」ことが多い方が仲間ができる

この時の思いは僕の原体験となり、その後僕は勉強にもスポーツにも全力で打ちこんでいくことになった。

エピソード2:「戻ってきた母さんと始まった“家族”の生活」

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無事友だちもできて施設での生活を送っていた僕だったが、ある日突然父さんからこんな言葉を伝えられた。

「ユウヤ、お母さんが戻ってきたんだって。また家族で暮らせるよ。よかったね」

僕はなんどもその言葉を頭の中で反芻した。「お母さんが戻ってきた…」

母親の顔すら覚えていなかった僕にとってそれは、果たして「喜ばしいこと」なのかどうか、判断しがたかったのだ。

その時すでに僕にとっての“母さん”は施設の職員さんだったし、親といえば父さんが1人だけだと思っていたのである。

そんな思いとは裏腹に、母さんが戻ってきたことで、再び家族そろっての生活がスタートした。

僕は帰ってきた母を好きになろうと努力はした。でも、

「僕は、いらない子なのかもしれない」

そう何度も感じた幼少期を思い出すと、なかなかすぐに「母さん」と呼ぶことはできなかった。

今考えると、フィリピン人だった母さんは見知らぬ土地である日本で心細い生活をしていたのかもしれないし、それを十分にケアしてあげられなかった父さんにもいろいろ問題があったのかもしれない。

僕を置いて家を出たのにはきっと理由があるはずだ。

そう頭では理解している。

ただ、僕がいまだに母さんに強い家族の絆を感じることができないでいるのも事実なのだ。

エピソード3:「ある“友だち”がいなくなってしまった」

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母さんが帰ってきて新しい環境の中で暮らしていた僕は、定期的に以前住んでいた施設を訪れることを忘れなかった。

幼い時に住んでいたその場所は、僕にとって単なる施設ではなく、大切な居場所となっていたからだ。

ある時、職員さんから

「ユウヤに読んでもらいたい本があって」

と1冊の本を手渡された。

表紙のタイトルが目に入った瞬間、僕の心臓がぎゅっと音をたてて縮まるのを感じた。

そのタイトルは、

「踏切に消えたナオ」

本を開くと、僕の不吉な予感は的中していた。

そこには、当時施設で一緒に暮らしていた友だちのナオが施設を出て、壮絶な人生をおくり、人生を自らの手で閉じるまでが描かれていたのだ。

同じ時に、同じ場所で、同じように暮らしていた子が、自ら死を選んだ

その事実は、僕にとって受け止めがたいもので、しばらく僕はその場から動くことができなかった。

本当のことを言えば、いまだにその事実をしっかり受け止めきれているのかは分からない。

でも後日ナオが自分の命を絶った現場を訪れ、置かれた花を見て、

しっかり自分の人生を生きなくては

そう感じたことを忘れることはなく、今でも僕の大きな決意として心に残っている。

エピソード4:大学生活と大きな一歩

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逆上がりの成功体験から、「できない」より、「できる」ことが多い方が仲間ができることを知っていた僕は、幸いにして成績も良かったため、進学を希望し、大学に入ることを決めた。

ここでは僕は「NPO」というものについて学ぶことになる。それが自分の感じている課題を解決するための一歩になると感じたからだ。

幼いころを振り返ると、父さんと母さんはお金をめぐってよく喧嘩していた。

「貧困」というものが家族を引き裂く要因にもなっている…そう感じた僕は貧困問題に取り組むことでこの課題を解決したいと考えたのだ。

こうした社会の問題を解決するために当時注目されはじめていたのがNPOだった。

これまで僕は母さんが自分の元を去った理由ばかりを考えていた。

でも、それよりは自分が問題を解決するために何ができるかを考えることに時間を使いたい。目標が決まってからはそんな新たな気持ちを持つこともできた。

そんな思いを持って選んだ大学での生活はとても楽しかった。もちろんつらいしんどいこともあったが、ナオの分も人生をしっかり生きたい、そんな思いが僕の背中を押してくれていた。

僕が大学に入って、新しく始めたことがある。

それは、児童養護施設の子どもたちに勉強を教えるボランティア活動だ。

ひとりぼっちで遊び、遠足のたびにつらい思いをした施設時代。僕の心を救ってくれたのは、施設に来てくれていた大学生ボランティアだった。

外に友だちと遊びに行くことはできなかったけれど、定期的に施設に遊びに来てくれるお姉さんやお兄さんは僕にとってとても大きな存在となっていた。

つらいだけだった遠足のイメージを変えてくれたのも大学生のボランティアだった。

「また僕のお母さんだけ、いないんだ」

そう思っていた僕の目の前に、一人のお姉さんが現れて、こう声を掛けたのだ。

「ユウヤ、待たせてごめんね。遠足一緒に行こうね」

その一言が嬉しくて嬉しくて。お姉さんと手をつなぐ自分がとても誇らしい気持ちになったのを覚えている。

だから今度は僕が子どもたちに夢を与える側になりたい。そんな思いが僕の背中を押していた。

僕みたいな思いをする人をちょっとでも少なくしたい

そんな個人的な思いから始めた活動だったけれど、ボランティアを始めた僕のもとには多くの仲間が集まってきてくれた。

何年たってもメンバーが僕の思いを引き継いで活動を続けてくれている姿を見ると、なんだかとても心があたたかくなる。

活動を通して子どもたちの笑顔に触れると、僕は遠足の時に手を差し出してくれたお姉さんの笑顔を思いだす。

僕たちの活動がすべての子どもたちの希望になりますように。

そんな思いを持って、僕はこれからも子どもたちと関わり続けたい。

エピローグ:僕が伝えたい事

今回、自分の人生を振り返ってみて、いろんなことを考えた。

僕の話を通じて、何を伝えたいだろうか。

そう考えた時、様々な人の顔が思い浮かんだ。

例えば、今記事を読んでいるのが子育て中のお父さん、お母さんだったら。

ちょっとでも子どもと一緒にいる時間を大切にしてもらえたらいいなと思う。特別にどこかに出かけなくたって、一緒にお風呂に入ったり、ご飯を食べたり、布団に寝転がったり…そういう何気ない時間が、子どもにとっては宝物だったりするからだ。

世の中にはそうする余裕すらない親だっていると思う。そんな時は、手紙でもいいし、LINEでもいい。たった一言、声を掛けるだけだっていい。

「僕は必要とされている」

その感覚が子どもにとって一番重要だということを知って、それを少しでも行動に示してほしいと思う。

また、もし読んでくれているのが母子家庭、父子家庭の方だったら。

もしかすると、「自分たちのせいで、子どもにつらい思いをさせているかもしれない」そう感じている人がいるかもしれない。

でも僕はこう言いたい。

僕には父親しかいなかったけれど、僕はそれで十分幸せだった。

親がどちらかしかいないから子どもは不幸だなんて思わないでほしい。自信を持って子育てをしてくれている親のことを悪く思う子どもはいないと思う。

また、これを読んでくれているのが、僕と同じ児童養護施設で育った子どもだったら。

人生で大切なのは、

何が起こったかではなく、それをどう自分で意味づけるか

だということを伝えたいと思う。

僕は施設で育った。中には施設で暮らしていたことを隠したがる人もいる。けれど、僕はむしろいろんな人に施設で育ったことを話している。

小さいころから集団生活をしたからこそ自分でいろいろなことができるようになったし、いろんな家庭状況の子がいることを知って人に優しくできるようになった。

例えつらい体験でもプラスの意味づけを自らすることで、乗り越えられることも多いと思う。

もちろん壮絶な虐待を乗り越えて施設にたどり着く子どもたちも多いから、何でもいいように捉えろとは言わないし、周囲の支援が必要なことは言うまでもない。

ただ、もし何かに悩んだ瞬間には、違う捉え方をしてみたらどうだろう。

また、僕の話を読んで少しでも児童養護施設やボランティア活動に興味を持ってくれた方へ。

もしよかったら、一歩踏み出して具体的な活動をしてみてくれたら嬉しいなと思う。

あなたにとっては些細な行動でも、子どもにとっては一生心に残る嬉しい体験になるであろうことは、僕が保障する。

施設は子どもたちを社会に送り出すという性質上、18歳までしか暮らすことができない(※現在支援対象年齢の引き上げが検討されいている最中である)。施設を対処してからの子どもたちは家族からの支援もなく、孤立してしまうことも少なくないことが問題となっている。そうした社会問題をぜひ多くの人に知ってほしいとも思う。

僕の話が、多くの人の幸せに少しでもつながってくれたら、本当に嬉しい。

※児童養護施設には予期できない災害や事故、親の離婚や病気、また不適切な養育を受けているなどさまざまな事情により、家族による養育が困難な2歳からおおむね18歳の子どもたちが家庭に替わる子どもたちの家で協調性や思いやりの心を育みながら、生活しています(社会福祉法人 全国社会福祉協議会全国児童養護施設協議会HPより)。

施設には様々な形態があり、ユウヤの暮らしていた頃からさまざまな制度的変更もありました。

よって今回のケースが全て当てはまるわけではありませんが、一人の男の子の物語として心にとめてもらえれば幸いです。

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