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1987年5月5日、ヤクルトスワローズに入団したボブ・ホーナーの日本デビュー戦。その第3打席、コンパクトなテイクバックから叩きつけるようにバットを振り下ろすと、外角低めのストレートを捉えた打球は瞬く間に右翼ポール際スタンドへ吸い込まれていった。

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滞空時間わずか1.8秒の弾丸ライナーで、被弾した阪神タイガースの仲田幸司は、「まるで金属バットで打たれたようでした」と振り返っている。

ゴールデンウイーク最終日、満員の観客で埋まった神宮球場は一瞬静まり返り、ホーナーがベースを回り始めたところで、ようやくライトスタンドから「ホーナーコール」が沸き上がった。

試合後に取材陣が押し寄せると、ホーナーは「三遊間を3人で守る変則シフトを避けるために右狙いをしただけだ」と、事もなげに言ってのけた。

そして翌日の試合では、さらに驚愕の打棒を披露する。

阪神先発の池田親興に対し、1回の初打席でスライダーを左翼席に放り込むと、5回には内角高めのストレートを左中間へ、7回には真ん中高めのストレートをバックスクリーンにぶち当てた。

池田は「もう投げる球がない」と嘆き、ホーナーのバッティングを一塁の守備位置から見届けた2年連続三冠王のランディ・バースは、「どうしてあんな選手を連れてきたんだ」と吐き捨てたという。

ホーナーはアトランタ・ブレーブスの4番打者として、前年に27本塁打を放っていた現役メジャーリーガーであり、年齢も29歳の最盛期。そんな選手がなぜ来日したのかといえば、当時、財政難に苦しんでいた大リーグの都合によるところが大きかった。

大リーグ各球団のオーナーたちはFA選手とのマネーゲームに応じないよう申し合わせ、ホーナーも年俸100万ドル(当時のレートで約1億5000万円)以下の条件しか提示されなかった。

これに難色を示していたところへヤクルトが年俸200万ドルを提示し、シーズン開幕後の4月13日に契約内定。同月27日に慌てて来日を果たしたものの、とても完調とは言えない状態であり、ホーナー自身も「パワー全開まで、あと1カ月待ってほしい」と話していた。

にもかかわらず本塁打を連発したことで、日本の野球ファンは度肝を抜かれた。

日本でのプレーは1年のみ

日本デビュー3戦目は阪神の投手陣が四球で逃げ回ったが、5月9日の広島戦(長崎・佐世保野球場)でもホーナーは2本塁打。地方の狭い球場だったとはいえ、そのうちの1本は場外弾となった。

来日4試合で11打数7安打、6本塁打という驚異的な活躍は、「ホーナー旋風」として連日のスポーツニュースでトップを飾った。

大いに注目を集めたホーナーだが、最終的には93試合、31本塁打の成績でシーズンを終了する。

規定打席に足りない外国人選手が30本塁打以上を達成したのは、日本球界初のことであった(のちにラルフ・ブライアントやロベルト・ペタジーニらが達成)。

とはいえ来日当初の活躍ぶりからすると、物足りない数字であったことも確かである。

調子を落とした理由としては、急な来日による調整不足で腰痛などに見舞われたことや、相手チームがまともな勝負を避けたことが挙げられる。

また「長すぎる練習」や「早すぎる球場入り」といった日本式への不満もあったという。

来日当初には野球専門誌のインタビューで、「常に100%の力を出せば、必ずいい結果につながる。それが私のすべてと言っていい」などと優等生的な発言をしており、実際にプレーそのものには全力を尽くしていたが、同時に夏場あたりからはイライラする様子も目立ち始めた。

そうしてシーズンを終えると退団を決意。アメリカ帰国後には「ベースボールと言えないスポーツをやるため、地球の裏側まで行くつもりはない」とコメントし、さらに『地球のウラ側にもうひとつの違う野球があった』(日之出出版)と題する著書も発表した。

なお、同書の中身は巨人びいきの審判の在り方や、バントに固執する戦略などへの批判もあったが、その大半は来日した経緯や日米のスタイルの違いへの言及、日本人選手に対する感想などであった。

それを「日本球界批判の書」として宣伝したのは、あくまでも出版社サイドの販売戦略によるものだったが、このときの悪印象でホーナーは今もなお「日本嫌い」のレッテルを貼られたままとなっている。

ボブ・ホーナー

1957年8月6日、米カンザス州生まれ。78年のドラフトで全米1位指名を受けアトランタ・ブレーブス入団。いきなりメジャーデビューして新人王を獲得。87年4月にヤクルト入団。同年オフにセントルイス・カージナルスと契約して米球界に復帰するも、左肩の故障で現役引退。大リーグ通算1047安打、218本塁打、685打点。