「オレの指はいつになったら生えてくるの?」指の欠損で拳が握れないプロボクサー浅井麗斗の格闘技人生。K-1からボクシング転向後、連戦連勝“ブレイク前夜の覚悟”

先天性四肢障害で手足の指に欠損がありながら、K-1選手を経て、現在はプロボクサーとして闘う浅井麗斗。現在新人王戦を勝ち進む彼に、自身のハンディキャップとこれまでの競技人生、これからの目標について聞いた。
 

「オレの指はいつになったら生えてくるの?」

中学生の頃、キックボクシングの試合後に対戦した選手のところへ挨拶に行くと、相手の表情が一瞬固まることが時々あった。そうして自分の手を見て驚かれることは、浅井麗斗にとって珍しくないことだった。

「今でも『あ、指を見られてるな』と気付くことはしょっちゅうありますよ。でもだからといって別に何か思うわけでもないし」

2001年、浅井は出産予定日よりも2か月早く、帝王切開により1410gで生まれた。出生後、両手の親指以外の指が8本、右足の親指以外の4本の指について、第1〜第2関節から先が欠損していることがわかった。

「握力がほとんどないので拳は握れないです。パンチの打ち方は常に工夫してますけど、日常生活では困ることとかはほとんどないですよ」

自身のハンディキャップについて飄々と話す浅井だが、それは幼少期からの両親の教育によるところも大きいかもしれない。父・典文さんは「まったく特別扱いしなかった」と話す。

「小さい頃から服のボタンも自分で留めろと言ってきました。本人は苦労してましたけど、できないとは言わせなかったし、本人も言わなかった。助けたのはリコーダーの穴を指でおさえられないときと、自転車のブレーキに指をかけることができなかったときくらいかな」(典文さん)

ペンで絵を描いたり、箸を持って食事をしたりといった日常動作が、他の子と同じようになかなか習得できない。しかしそのことについて、浅井が愚図ったり泣いたりしたことはなかった。

「小学1〜2年の頃、指がないことが恥ずかしいのか、友達の前でポケットに手を突っ込んで隠そうとしていたことがありました。そのときは『何やってんの?』と怒りましたね。指のことで叱ったのはそのときくらい。麗斗も母親も俺も、当たり前のこととして受け入れてました」(典文さん)

それでもまだ子どもだった。やはり小学生の頃に、「オレの指はいつになったら生えてくんの?」と、典文さんがいないとき、母親に尋ねたことがあるという。

「ウチのかみさんは『まだ生えてくると思ってたの? 生えてくるわけないでしょ』と、普通に笑って返したみたいですけど。そういうやり取りも、それで暗く落ち込んだりとはまったくなく、ウチではギャグとして受け入れられていました」(典文さん)

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10代でK-1選手に

浅井が格闘技に触れたのは小学校低学年のころ。近所の学校で開かれていた空手教室になんとなく通い、なんとなく試合に出ていた。

「ただ、型の美しさを競う大会に出ると、麗斗は手足の指がないので、毎回審判員がどうジャッジしたらいいのか、戸惑った様子で集まって協議してましたね。親の勝手な思い込みかもしれないですけど、シャープに見えないからか、結局負けたりする悔しい経験が何度かあって」(典文さん)

キックボクシングを始めたのは小学校5年のとき。典文さんに「いじめられないように」と地元埼玉の道場に連れていかれたその日から、すぐにのめり込んだ。

ただ、ここでまた別のハンディキャップの壁に当たる。浅井は幼少期に医療機関の指導で低身長症検査を受けるほど、ひときわ体が小さかった。中学時代は学年で出場枠が変わるジュニア大会に出場していたため、同世代の子と体格差が激しく、「負けてばっかりだった」と浅井は苦笑する。

「試合で体重差10kgとかはしょっちゅうでした。これも先天性のものかわからないんですけど自分は太れない体質で、プロになってから今まで減量したことが一度もないんです。なので相手はいつも自分より大きな選手で」(浅井)

それでも、体格差を理由に敗戦の言い訳をしたことは一度もない。格闘技の熱は冷めず、中学卒業後は通信制の高校に通いながらプロのK-1選手を目指し、3年後にアマチュアの大会で優勝したことで、プロデビューを果たす。

「本当はすぐにプロデビューする予定だったんですけど、3年かかってもう辞めようとしたときに優勝できて、なんとかプロになれました。なので、10代でK-1プロデビューといっても自分はまったくエリートとかじゃないですよ。結局K-1では6戦して、2勝2敗2分でした」