幕末、国のために奔走した若き“官僚”たち『海風』今野 敏 インタビュー

若きエリート官僚が躍動した時代

――今回の『海風』は幕臣の永井尚志を中心に、永井と学生時代から親しく交流していた岩瀬忠震、堀利熙の三人の活躍が描かれています。この三人を描こうと思われたのはなぜですか。

 江戸の官僚小説を書こうと思ったんです。それも現代でいえばキャリア採用で入庁して忙しく働いている若手の官僚たちを。幕末でそれに当たる人が誰かと考えたらこの三人だったんです。昌平坂学問所を出て幕臣になり、その能力を買われて取り立てられていく。現代でいえば東大法学部を出て官庁に入ったエリートたちと同じような立場です。じゃあ、この人たちで幕末を舞台にした若手の官僚小説を書けるなと。発想としてはそこからですね。

――若き官僚たちが活躍する時代として選んだのが幕末だったのですね。

 そうなんです。幕臣がやった仕事でハイライトになるなと思ったのは安政五カ国条約。江戸幕府がアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと結んだ条約です。つまり外交。現代でいえば外務官僚の仕事です。

――『海風』の冒頭は永井と岩瀬が黒船がやってきた衝撃を語っているところに堀がやってくる場面です。三人は昌平坂学問所の学友でしたが、永井はまだ大した仕事はなく、岩瀬は昌平坂学問所の教授方。家柄の良さで早くも大役を担っている堀が、永井が江戸城に呼ばれることを告げにきます。堀の従兄弟で、三人のうちもっとも頭のいい岩瀬もやがて取り立てられ、三者三様に外交に関わることになります。老中首座の阿部正弘が若手幕臣を抜擢していったわけで、江戸幕府は単なる旧体制ではなく、内部では改革しようとしていたんですね。

 あの時期の幕府はものすごいスピードで改革しようとしているんですよ。トップの阿部が急進的過ぎて、周りが「ちょっと待てよ」と止めていたくらいで。

――しかも、驚いたのはその若さです。

 永井が目付に取り立てられたのが数えで三十八歳。阿部は永井よりさらに三歳年下ですから。

――阿部のような若い老中首座が同世代の優秀な人材をピックアップした。

 そうなんです。だから、戊辰戦争さえなければ、幕臣によるいい政府ができた可能性もあったと思いますね。

――今野さんのお書きになる阿部正弘がまたいい味を出しています。永井に「かしこまるなよ」とかカジュアルに話しかけて。

 ああいう性格だったんだろうなと思いますね。ものすごくせっかちだったらしいし、どんどん現場に顔を出していたらしいですし。まだ若く、永井とは世代も近い。必然的にああいうしゃべり方になりました。後は官僚小説なので、いかにも官僚の人間関係だという雰囲気が出ればいいなと。

――なるほど。それは今野さんが警察小説でお書きになってきた警察官僚の世界と重なりますね。

 そうですね。『隠蔽捜査』なんかで培ったものだと思います。

――黒船来航でまったなし、という状況で、阿部は改革を進めようとしますが、当然抵抗もある。長く続いてきたシステムを変えるのはやっぱり難しいんだなとも感じました。

 改革するといっても、二百五十年以上続いてきた体制ですからね。基本的に幕府はものすごく保守的だと思うんですよ。そこで何か新しいことをやろうとするのは大変だっただろうと。今の日本にも似たところがあるんじゃないでしょうか。

――僕も読んでいて、まさに今の日本のことを思いました。

 官僚の大変さというか、改革の大変さは今も変わらないでしょうね。

――今の日本でいえば、高度経済成長で世界で一流の国になったという成功体験から、いまだに抜け出せないところがありますし。

 そうですね。でも、幕末はもっと根が深いんです。というのは、個人ではなく家単位でものを考えなくちゃいけない。侍にとっては家を存続させることが何より大切ですから。幕臣たちはそういう立場にいつつ、前例のないことをやろうとしたわけで、それはなかなか大変だったと思いますよ。ただ、やっぱり優秀だったんですよね、ものすごく。

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したたかでなければ続かない
長崎での人間ドラマ

――永井は優等生ですが、岩瀬のような天才肌ではないし、堀のような豪胆さというか、力強い感じでもない。〝普通の人〟に近い人物ですね。

 幕臣としては卓越した仕事をした人で、『海風』のその後の時代にも活躍した人なんですよ。ただ、物語の視点人物はあまり個性がないほうがいいんです。そのほうが読者が物語に入っていきやすいので。その代わりに周りに面白いやつを配置しておかなきゃいけない。水野みたいに一癖も二癖もある人物とかね。

――長崎奉行の水野忠徳ですね。永井が目付として外交の最前線である長崎に赴任すると、木で鼻をくくったような対応を取ります。そうかと思うと永井をこき使ったり。

 ああいう人だったらしいです。小説ですから、キャラづくりはしていますけどね。調べてみたらあの人はキャリアが長いんですよ。長いこと幕府で働いていますから、ああいう清濁併せのむタイプだったんじゃないかなと思いますよね。

――したたかでなければ長くは続けられないんですね。「濃い」キャラの水野とは対照的に、もう一人の長崎奉行、石見守(荒尾成允)はすごく存在感が薄いという設定で、とぼけたやりとりに笑ってしまいました。

 ああいうクセのある人を長崎で活躍させたかったんですよね。花魁の浮舟大夫とかもそうですね。

――長崎の場面では、通詞(通訳)の描写が面白かったですね。英語ができないから、オランダ語を挟んで訳すとか。通詞にもランクがあったそうですね。

 大通詞、小通詞、稽古通詞がいました。大通詞が一番しっかりした通詞で交渉ごとの通訳を務めたのですが、それだけではなく、西洋人の身の回りの世話や、食事にまで気を配らなくてはいけなくて、大変な仕事だったらしい。そういう人たちの中には半分スパイみたいなことをやってる人もいたみたいです。そうかと思うと大通詞の話すオランダ語が古過ぎて分からないと言ったアメリカ人がいたり。

――日本語の訳がやたら大仰で、永井が戸惑うというエピソードもありましたね。

 通詞といっても、今みたいに学校でオランダ語を教えているわけじゃない。通詞は家業として、代々、伝えていくスタイルなので、それはどうしても古くなりますよね。

 でも、書いた私が言うのも変なのですが、よくあんな難しい交渉事を、そういう通詞でやれたものだなと思いますね。実際に交渉の現場を見てみたかった。どんな雰囲気でどんなことを話したのか。精いっぱい想像して書いたんですけどね。

――長崎に取材に行かれたそうですね。

 行きました。当時からある老舗の料亭に行って食べてきましたよ。作中にも出てきた和華蘭料理を。

――「日本風の和、清国風の華、オランダ風の蘭で和華蘭」と本文にありますね。お店も実在するんですか。

「一力」というお店です。有名なお店なんですよ。

――実在するといえば、歴史小説は史実に基づくことが原則ですよね。やはりそこに苦労されましたか。

 そうですね。調べながら書くのがしんどかったですね。長崎のことも登場人物を生かしてもっと書きたかったんですが、今のキャリア官僚と同じで、幕臣も異動が多いんです。二年ぐらいで異動するのは今とまったく変わらない。長崎奉行も一年ぐらいでころころ代わっちゃうので、面白いエピソードを思いついても「あ、あの人もう異動になってる」みたいなことの連続でしたね。

 誰がどこにいるかを調べるのも大変で、うっかりすると「せっかく書いたけどこの人、今ここにいないわ」みたいなことが起きるんですよ。たとえば、交渉相手になるオランダ船の艦長、ファビウスがどこにいるのか。ずっと長崎にいるわけじゃなくて、気がついたら函館にいたりする。ファビウスと永井が長崎で話をしている面白い場面が書けたと思ったら、実はその時、彼は下田で岩瀬と会っていたという史実がわかって慌てて書き直す、そんなことの連続でした。

――同じ歴史小説でも琉球空手の名人たちを描いた作品とは苦労の度合いが違いますか。

 そうですね。琉球は狭い島の中で起きていることなので、誰がどこにいたということでは、そんなには齟齬が起きないんですよ。琉球の王朝の仕組みを調べるのは大変でしたけど。