ルビで遊びつつ、版面の外にも
つながっていくdadada
川名 最初はBGMをつけるような感じで始めたんです。だから、奥泉さんのテキストが譜面としてあるのであれば、こっちはその譜面に合わせて楽器で音をつけていくみたいな感じかなと思ってやりました。特に後半は何回もゲラを読みながら、ここはなんとなく蛇の気配がするから入れてみようとか。
奥泉 そうそう、そうでしたね。
川名 現代音楽で、音符や五線譜ではなくて図形やテキストで楽譜を表す図形譜ってあるじゃないですか。蛇のようにうねっているdadadaを見ると、ジョン・ケージやヤニス・クセナキスなどの図形楽譜のように思えてくる。そう考えると、音をつけるのではなくて、楽譜づくりに参加していたのかもしれませんね。
奥泉 小説っていうのは、楽譜に近いものであるわけですね。楽譜を見ながら演奏するのは読者で、読者が活字を追っていくことによって世界を構築していく。図形譜というのはだからいい得て妙ですね。小説は、頭から読んでいって最後まで行くという、基本的には直線的な流れになっている。その直線的な流れをdadadaというノイズが入ってくることで阻害し、歪めていく。そういう意味では、小説が絵画的な方向に寄っていくんだと思います。
この絵画的という感覚は漱石にもあって、特に初期の、新聞小説作家になる前の漱石はすごく絵画を意識している。『草枕』の中に主人公の絵描きが女性にどうやって小説を読んだらいいかを教えるシーンがあります。彼は、頭から順に最後まで読む必要はない、適当に開いたところを適当に読むのがいいんだという。確かに、我々が絵を見るとき、端から順に見ていくのではなく、全体を大摑みに見たり、さまざまな細部を見たりと、視線を動かしている。今回はそういう絵画的な方向に寄っている小説でもあるかなと思います。
川名 打ち合わせで奥泉さんと話しているうちに、dadadaの入れ方として、版面の外、文章の外からちょっと水をかけるみたいなものでは足らないだろうなと思ったので、本文の内側にまで大胆に嵌入させて、さらにルビで芸をしてみようと思いつきました。ルビで芸をするというのは、さっきの円城さんの本とか、それとはちょっと違いますが、柳瀬尚紀さんが訳されたジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』もルビが非常に効果的に使われている。
そこで、ルビで遊びつつ、なおかつ版面の外へもつながっていくような、今までとは全然違うものにしようと思ったんです。
奥泉 dadadaのルビが組み込まれたゲラが送られてきたときは、びっくりしました。なるほどルビで絵柄を描くことができるのかと。非常に新鮮に思ったし、またその入れ方もすばらしくて、それはセンスとしかいいようがないですね。
特に最後の方で大蛇が登場するシーンでは、登場人物たちがディスカッションする会話部分にdadadaのルビが入り込んでいるのが非常に効果的でした(次頁)。
川名 あそこが一番のクライマックスだと思ったんです。ただ、そのクライマックスのところを読みづらくしてしまったかな、と少し気にはなったのですけど。
奥泉 確かに普通に読むには読みにくくはなっているけれど、もうあそこまで来れば話の流れは充分に頭に入っているから気にならず、むしろあのうねるような文字群から物語全体がある種の混沌の中にのみ込まれていこうとしている気配が強烈に伝わってきました。
川名 よかったです。いざ入れ始めると、途中で入っていないところが静かすぎる感じがして、ここは鳴ってるはずだよなと、じわじわ増えていく。だから、増やしすぎたと我に返る前にデータを送ってしまおうと。もし多すぎれば奥泉さんが何かいうだろうなと思って(笑)。
奥泉 さっきいわれたように、なぜぼくがdadadaについてあれほど熱く語ったかというと、連載でも書き下ろしでも、長いものを書いて本にする段階で、装丁ではなくて、本文に色気を出したいという気持ちが強くあるからなんです。本というのは、手に取ってパラパラめくったときに、これは面白そうだなと気配が感じられるものですから。
今回でいえば、連載の段階では章立てはなかったんです。で、単行本にするときに改めて章に分けて、さらに章題をつけようと。たとえば大江健三郎さんは章題のつけ方がすごくうまくて、魅力があるんですよね。
川名 面白い章題がついていると、別の期待値が働いたりしますね。
奥泉 一読者として、魅惑的な章題がついている本に出合うと大変にときめく。あるいは冒頭にエピグラフを置くとか、そういう一種の色気をこの本にも施そうと思っていたんです。だけど、川名さんのdadadaを見たら、もう章題は要らないなと思いました。これで章題を入れると、むしろうるさいという気がしたんです。
川名 dadadaを入れ込むに当たって、やはり普通の四六判ではなくA 5判という大きなキャンバスを使えたのは助かりました。
奥泉 なおかつ分厚い。ぼくは厚い本が好きなので、嬉しいですね。
もう一つの色気として、挿絵が入る本をつくりたいという気持ちも以前からあった。たとえば、昔読んだスターンの『トリストラム・シャンディ』にも挿絵や手描きのあらすじの概念図などが入っていますが、そういう遊びも小説がもっている一つの魅力だと思っています。書き手は基本的にテキストだけをつくっているのだけれど、本になる段階では何か遊びがある本、アートとしての本ができたら面白いんじゃないかと。そうした昔からの思いを、今回こういう形で実現できたことが非常に嬉しかったですね。
川名 この本の話をいただく少し前に、大田ステファニー歓人さんの『みどりいせき』の装丁を手がけていたんですけど、ゲラを見たら、LSDのシーンのところですごく面白い文字組みがされている。あのときは装丁のみでレイアウトには関わっていなかったのですが、あれを見て、悔しい、自分でやってみたかったと思いました。その悔しさが、今回の本に全部反映されています(笑)。
奥泉 川名さんにはいろいろやっていただいたわけですが、やはり小説全体のボリュームがあるから可能だったのだと思います。短い作品でやっちゃうと邪魔な感じになる可能性が高かったと思うし、さきほどもいったように、dadadaが出てくるのは後半ですから、物語の骨格がすでに出来上がっているので、持ちこたえることができる。
川名 あのヘンテコなdadadaには、そこまでの長い前振りが必要なんですね。
奥泉 最初からいきなり出てくると、ただ読みづらいだけになるかもしれないけれど、ずうっと読んできて、ついに登場、というのが効果を上げていると思います。
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小説は“言葉のアート”
奥泉 自分でいうのもなんですが、あの強烈なdadadaが入り込んでいくには、テキストが相当強力じゃないといけないんですね。極端なことをいえば、どこを読んでも面白くなければ駄目なんです。果たしてそうなっているかどうか不安ではありますが、それが理想なんです。
川名 でも、「何だこれは?」と興味を惹かれるまでがすごく早いですよね。読み始めて割とすぐに、なんだか様子がおかしいのが分かってくる。それはやはりテキストの力だと思います。
奥泉 きっと、視点が入れ替わっていることがそういう感じをもたせるのでしょうね。デビューした頃はもっぱら単視点で書いていたのですが、今度の小説は、最初は一人称で、途中から三人称になり、さらにまた一人称に戻ったりしている。あえて三人称と一人称の境目をなくしているんです。
川名 マジック的にすり替わっている。
奥泉 前に書いた『雪の階』という長編では、〝三人称多元〟の手法を用いていて、ワンセンテンスの中で視点が入れ替わる技法を使いました。結構細かくやっているのだけれど、それを読者には気がつかせないようにするのが肝心です。そうした手つきが目に付くと興醒めですから、分からないように視点を変えていく。一定の達成があったと自分では思っていたんですが、今回はそれとは違う形で、さらに自由にやっています。
川名 そうやって細かく計算、計画されているので、奇書ではあるけれど、とても綿密に計画された奇書なので、本音をいえば、装丁という仕事ではなくて、初めて読む読者として新鮮な目でこの本に出合いたかったという気持ちもあります。
奥泉 さっきもいいましたが、チャンスがあればこういう本をつくりたかった。むしろ、さまざまに遊びがあるのが小説だぐらいの気持ちですね。
伝統的な文芸の流れでいうと、ぼくはリアリズムの作家ではなく、一応、モダニズムの作家だと思っています。モダニズムの作家というのは、訳の分からないことやりたいんですね、本当は。
小説とは散文による言葉のアートである、というふうに捉えることができる。さきほどの『草枕』のような小説はアートとしての小説を強く意識した作品で、その流れはヨーロッパでも日本でもずうっとある。ぼくはどちらかというとその流れの作家だと自分を位置づけています。
そういう意味でいうと、小説にいろいろな遊びがあること自体何の違和感もないし、むしろそういうことをやりたかったんですけど、なかなかやる機会がなかった。
川名 それをやる必要がある作品でないとできないですよね。
今度の作品は、奥泉さんのこれまでの作品の人物がスターシステム的に登場してきて、「あっ、これ、あの人だったのか」みたいな感じで面白がれるし、読んでいて「奥泉祭り」を楽しんだという感じですね。
奥泉 そういっていただけるとありがたいです。