■バスケットとの出会いがのちの人生を大きく変える
スーパースターにとって最も美しい引き際とは、ピークに近い状態を保ったまま、チームの優勝と同時に鮮やかに去っていく……というものだろう。その典型例がマイケル・ジョーダンの2度目の引退で、ビル・ラッセルやデイビッド・ロビンソンも理想に近い形で幕を引くことが叶った。
モーゼス・マローンはその逆に、全盛期をとっくに過ぎてからも現役にこだわり続けた選手である。先発センターのバックアップとして数分間出場するだけだった晩年の姿からは、完全にペイントを支配していた絶頂期を想像するのは難しかった。だが彼こそは、3回以上MVPを受賞した史上3人目の選手であり、高卒選手の先駆者としても名を残す、掛け値なしの名選手だったのだ。
子どもの頃のマローンは、とても将来スターになるとは思えなかった。家はとても貧しく、1人っ子だった彼は内気な上に、歯の形が悪いことを気にしてほとんど他人と話そうとしなかった。
だが、バスケットボールと出会ったことが彼を変えた。バスケを始めたのは13歳と遅い方だったが、毎日のようにプレーグラウンドに顔を出し、学校から帰宅してからも遅くまで自己練習に励んだ。時計の針が深夜の1時や2時になることも珍しくなかった。
「ずっと練習ばかりしていたから、すぐに靴が傷んでしまった。もともと安物だったから、ほとんど5日おきにダメになっていたね」
努力の甲斐あってメキメキと実力をつけ、高校時代にはチームを50連勝と2度の州大会優勝に導いた。300校を超える大学から勧誘され、「知らないうちに (プレゼントとして) 家の前に高級車が置かれていた」ことさえあった。
最終的には母の意向もあって、自宅に近いメリーランド大を選ぶ。ところが入学3日目に、ABAのユタ・スターズがドラフト3巡目指名したとの知らせが届いた。「高校生が100人いたら、99人には進学を薦める。でもモーゼスは別格だ。彼の家族にしたって、すぐに金が入ってくる方がいいはずだ」(スターズのアシスタントコーチ、ラリー・クリーガー)
大学関係者の怨嗟の声をよそに、5年300万ドルの契約を交わしマローンはプロとしてスタートを切った。その選択が正解だったことは、平均18.8点 、14.6リバウンドの好成績が証明した。身長が特別高いわけでもなく、身体もまだ細身だったのにこれだけリバウンドを奪えたのは、敏捷なフットワークと正確な読み、そしてボールを手にするまで決してあきらめない粘り強さによるものだった。
スターズが解散した2年目はスピリッツ・オブ・セントルイスへ移ったが、今度はABA自体が解体の憂き目に遭う。スピリッツが解散したため、NBA分散ドラフトの指名対象となったマローンは5位でポートランド・トレイルブレイザーズに指名された。だがセンターにはビル・ウォルトンがいたこともあって、シーズン開幕前にバッファロー・ブレーブス(現ロサンゼルス・クリッパーズ) ヘトレードされる。ブレーブスでも2試合に出場しただけで、今度はドラフト指名権ふたつとの交換でヒューストン・ロケッツに放出された。
■ロケッツ移籍を機にメキメキ頭角を現わす
短期間に2度もトレードされて自信を失いかけたマローンだったが、ロケッツへの移籍は吉と出た。ヘッドコーチがスターズ時代の恩師トム・ニソーキーで、新しいチームにすぐ馴染めたのだ。平均13.1リバウンドはリーグ3位、とりわけ437本のオフェンシブ・リバウンドは、それまでの記録だったポール・サイラスの本数を72本も更新。プレーオフでも1試合15本の新記録を打ち立て、オフェンシブ・リバウンドの達人との評判を確立した。
ロケッツのある選手は「俺たちはシュートを決めなくてもいい。外してもモーゼスが拾って押し込んでくれるから」と言い切った。
オフにビルドアップして臨んだ78-79シーズンは、平均得点が5点以上も増えリーグ5位の平均24.8点、リバウンドも自己最多の17.6本で初のタイトルを獲得し、ABA出身者として初のMVPに輝いた。オフェンシブ・リバウンド587本は、今も破られぬ史上最多記録。
同部門の年間本数記録の1~3位までをマローンが独占しており、通算7382本も2位のアーティス・ギルモアに2500本以上差をつけている(ABA時代を含んだ数字)。現役最多のアンドレ・ドラモンドでも、3656本でマローンの約半分。マローンのオフェンシブ・リバウンドは、それほど並外れたレベルにあったのだ。
82年は得点部門でも平均31.1点で2位となり、2度目のMVP。シュートレンジは狭くとも、その分フリースローを数多く得て、ビッグマンとしては及第点である75%以上の確率で決めていた。カリーム・アブドゥル・ジャバーでさえもまったく抑えることができず、彼は自伝でマローンに一切言及しないことでプライドを保とうとした。(後編に続く)
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2012年8月号原稿に加筆・修正
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