チラシ配りの“エース” 

島田秀平 (C)週刊実話Web

――当時、生活面は?

島田「18歳で上京した頃は、もちろんボロアパートでバイト三昧でした。でも、3年目くらいでオンバトに出るようになると、学園祭とかにも呼ばれるものだから、普通に食えるようになったんですよ。ところが、関西勢の芸人がどんどん勢いを増すと、僕らは徐々に下降線をたどっていき、またバイト生活に戻るようになっていくんですね。
最後のほうは言い訳もできないくらいお金がなくなっていて、電気、ガス、水道の3つが止められるのは当たり前でした。携帯もよく止められたけど、そうするとマネジャーから来る仕事の連絡も受け取れないんですよ。あれはキツかったなぁ」

――アップダウンの激しい生活を送っていたと。

島田「リアルに生活が苦しいから、どんどんバイト中心の毎日になっていくんですよ。特にチラシ配りはアホみたいにやって、一緒に働いているおじいちゃんたちから“エース”と呼ばれていました。
たまに街ロケの仕事が入っても、ついついマンションのポストをチェックしちゃうんです。『ここなら100枚はいけるな』とか考えちゃって(笑)」

島田秀平 (C)週刊実話Web

――コンビ解散後、怪談や手相占いに活路を見出した経緯を教えてください。 

島田「同じ事務所の和田アキ子さんの言葉が大きかったです。コンビ解散を報告しに行ったら、『あと1年だけ頑張ったらええやないか。1個じゃ飽きられちゃうから、2個なにかしら頑張れ。そして年末に報告せえ』って言われたんです。
その2個というのが怪談と手相占いだったんですよね。怪談は子供の頃から好きだったし、手相占いは仕事で知り合った“原宿の母(菅野鈴子さん)”が教えてくれたものですから」 

――『草野☆キッド』(テレビ朝日系)での手相占いは語り草になっています。 

島田「草野仁さんの手相を見させていただき、『エロ線がありますよ』って伝えたんです。そうしたら草野さんも優しいから、『否定はできないな~』とか話を合わせてくれて盛り上がったんですよ。
驚いたのはそれからで、『手相をやると視聴率がそこだけガーンと上がる』と番組スタッフから聞かされたんですね。それで試しに放送時間の30分を手相だけでやってみたら、過去最高視聴率を獲得できたんです」 

――ついに時代をつかんでしまいましたか! 

島田「それから手相の本を出したことも大きかったです。どんどん重版がかかるものだから、自分でもビビりましたね。とんでもないことになっているなって」 

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「俺はもうお笑いの人間じゃないのか…」 

島田秀平 (C)週刊実話Web

――お言葉ですが、芸人として挫折したことはむしろよかったのでは?

島田「いや、それはなかったです。確かに仕事は増えて生活は楽になったけど、気持ち的には劣等感に苛まれていました。だって僕は、お笑いがやりたくてこの世界に入ったわけじゃないですか。後輩芸人からも『売れているかもしれないけど、占いで仕事が増えても全然うらやましくないですよ』って小バカにされている気がして…。
今はそこを克服しましたけど、一時は肩書恐怖症みたいになっていましたから。『占い師の島田さんです』とか紹介されると、『俺はもうお笑いの人間じゃないのか…』って裏で静かに落ち込んで」

島田秀平 (C)週刊実話Web

――20年に『号泣』が再結成されたのは、そうした背景があったからなんですね。

島田「あれはユーチューブの企画で、相方が急に言い出したんです。やっぱり漫才ができるのは単純に楽しいですよ。解散する前は苦しいことばかりだったけど、今は2人でお笑いすることが楽しくて仕方ない」

――話を伺っていると、非常に周りの人たちに恵まれている気がしました。

島田「それは自分でもすごく感じます。三村さん、アキ子さん、原宿の母、そして相方…。もし僕に他人より優れているところがあるとしたら、それは周りの人に恵まれていることだと思うんですよ。だから、これからも人との出会いは大切にしていきたいですね」

企画・撮影/丸山剛史

島田秀平 (C)週刊実話Web

島田秀平(しまだ・しゅうへい)
1977年12月5日生まれ。長野県出身。2002年、仕事で知り合った「原宿の母」に弟子入り。手相占いの他、パワースポット、都市伝説、怪談にも精通しており、現在はテレビや雑誌など多くのメディアで活躍中。手相占い関連の書籍は累計100万部を突破。