北公次

1967年に結成されたフォーリーブスは、それまで女子たちの人気を集めていた御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)やグループサウンズに取って代わり、「歌って踊れるアイドル」として一気にスターダムを駆け上がった。

森田健作が主演したドラマ『おれは男だ!』(日本テレビ系)にフォーリーブスがゲスト出演した際には、あまりにも多くのファンがロケ現場に押し寄せ、撮影が中断したほどの人気ぶりだった。

【関連】ジャニーズ性加害問題の第一人者が“真実”を激白!「ジャニーは目当ての少年が寝ている布団にそっと…」 ほか

フォーリーブスは当初から「グループ内にスター的存在のメンバーをつくらない」というコンセプトだったが、人気でいえば北公次(コーちゃん)と青山孝史(ター坊)がツートップ。おりも政夫(マー坊)と江木俊夫(トシ坊)は司会やMCを担当し、時に三枚目を演じることもあった。

特に運動神経に優れた北は、見事なダンスパフォーマンスを誇り、日本で初めて、舞台上でバック転を披露したアイドル歌手としても注目を集めた。

そもそも北は中学時代に体操の才能を見込まれ、地元の和歌山県田辺市では「将来の五輪代表候補」として注目されていたという。

しかし、父親の事業失敗からの極貧生活という家庭の事情もあって、中学を卒業するとすぐに集団就職。いくつもの仕事を転々とする中で、たまたま工場の食堂にあるテレビで(初代)ジャニーズを見て「俺ならもっとすごいアクロバットができて、人気スターになれる」と芸能界入りを志すことになる。

芸名の「北」は喜多川の“喜多”

なんとかツテをたどってバンドボーイとなり、『日劇ウエスタンカーニバル』の舞台袖でショーの合間にやっていた映画を見ているとき、ジャニーズ事務所の社長であるジャニー喜多川に見初められた。ジャニーから「ジャニーズに会わせてあげるよ」と誘われた北は、その場で彼らの付き人になることを快諾する。

ジャニーは北を気に入り、すぐに目を掛けられる存在となった。北公次という芸名も自身の名字である喜多川の“喜多”にちなんで付けられたものだった。ジャニーズ事務所入りを決めた北は、さっそくジャニーの自宅兼合宿所に住むことになるのだが、住み始めてから間もなくして、ジャニーが北の部屋を訪れるようになった。

以下は、北がジャニーの性癖を暴露した1988年刊行の著書『光GENJIへ 元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』(データハウス)からの引用である。

「うすい布団に寝ているおれのもとへジャニー喜多川さんがそっとやってきておれの寝ている布団の中に入りこんできた」

当時、北はまだ16歳。女性との経験が一切なく、ジャニーによって初の性交体験をすることになる。そうして2人の“同棲”関係は、4年以上に及んだという。

「嫌ならばさっさと部屋から出てしまえばいい、何度そう思ったことか。しかし東京で食いつなぎながらアイドルになるためには、ジャニー喜多川氏のもとで生活する以外に手段はなかった」(前出の『光GENJIへ』より)

(広告の後にも続きます)

“捨てられた”ことへの恨み 

ジャニーとの行為自体には嫌悪感を抱いていたが、所属タレントの中で最も大事にされ、ジャニーから寵愛を受けているとの自負もあった。また、それは北のタレント活動において、ある種のプライドのようなものになっていた。

この複雑な心境について北は、「俺とジャニーさんは恋人…いや夫婦だった」と、その著書のゴーストライターを務めた本橋信宏氏に話している。

だが、ジャニーの性的嗜好はあくまでも「少年」を対象としたものであり、北が20歳を過ぎたあたりからは興味を失ったのか、距離を置かれるようになった。

北個人の芸能活動においては、単独でドラマや映画に出演するなど順調に見えたが、1978年のフォーリーブス解散と同時に事務所を退所。さらには告発本まで発表したのは、ジャニーから“捨てられた”ことへの恨みと、新たに寵愛されるようになった後輩たちへの嫉妬が原因だったともいわれている。

北は退所した翌年の1979年に覚醒剤取締法違反で逮捕され、その際に「フォーリーブスの人気が低迷するようになった1975年ごろから使用した」と話しているが、これはジャニーとの“同棲”解消の時期とも重なる。

しかし、ジャニーへの怒りは心底からのものではなかったようで、2002年にジャニーズ事務所からフォーリーブス再結成の話を持ち掛けられると、それまで「ジャニーくたばれ」などと言っていたにもかかわらず、北は一も二もなくこれに飛び付いている。

2009年にメンバーの青山が急逝してフォーリーブスが無期限の活動中止になると、北も徐々に芸能活動からフェードアウト。2012年2月に肝臓がんであることが公表され、それから間もなく逝去した。63歳没。

亡くなる直前には自身のブログにおいて、ファンだけでなくジャニーへの感謝の言葉も記している。

文/脇本深八

「週刊実話」10月10日号より

北公次(きた・こうじ)
1949(昭和24)年1月20日生まれ〜2012(平成24)年2月22日没。和歌山県出身。1966年に本名の「松下公次」で芸能界デビューし、翌年にフォーリーブス結成。歌って踊れるアイドルグループとして人気を博し、1970年から7年連続で『NHK紅白歌合戦』に出場。グループは1978年に解散するが、2002年に再結成を果たした。2012年に肝臓がんで死去。