東京ヤクルト・スワローズの青木宣親外野手が引退すると聞いて、最初に思い出したのは、彼がまだブルワーズでプレーしていた頃のことだ。
【動画】14年ワールドシリーズ第7戦、青木がバムガーナーから放った「会心の一打」
敵地シカゴでのカブス戦で、彼は5打数無安打に終わった上に、2三振を喫した。取材拒否など一切しない人彼はしっかりと記者たちに向き合い、「また明日、頑張ります」と締めた。取材席に戻り、原稿を書いていると間もなく、隣りにいた記者の携帯が震えた。
「青木さんが、飲みたいと言っている」
現地集合してみたものの、青木は飲み物にあまり口をつけず、事あるごとに溜め息を吐くような感じで、そこにいた。大学時代から身体のケアをしつつ、二人三脚で理想の打撃を作り上げた原田雅章氏が、気を使って声をかけたが、どうも反応が良くない。私よりも「青木番」歴が長い他の記者たちも雑談で笑わそうとするが、効果があるのは一瞬だけ。大げさでもなんでもなく、バーの椅子に腰掛けた彼の視線は宙を泳いでいるようで、周囲の人間にはそれ以上、何もできない感じだった。
よく分からないまま解散した翌日、青木は前夜とはまったく違った明るい表情で、クラブハウスにいた。昨夜の飲み会の感想を正直に述べると、彼は「電話で家族と話す前に、嫌な気持ちを捨て去りたかった」というようなことを言って笑った。
青木が翌日の試合で、5打数5安打だったなら、落ち込んだ姿も画になるところだが、そうはならなかった。当時の彼が戦っていたのはメジャーリーグである。結果は1安打2盗塁のみ。しかし、前夜とは違い、彼は「まあ、1本(ヒットが)出たから良かったんじゃない?」と涼しい顔だった。
「日本だったら2本、3本ってヒットが出てても不思議じゃない感じの打席だったけど、ここはメジャーなんです。もちろん、毎回、ヒットを打とうと思って打席に立ってるけど、そんなに簡単な場所じゃないから。盗塁もできたし、悪くはない日だった」
それが当時、MLBで戦うノリ・アオキのリアルな日常だった。 彼はいつも、必死だった。1本のヒットを打つために徹底的に打撃を考え抜き、その日のコンディションに合わせて、手の位置や足の位置を微妙に変え、首の角度やスタンスも変える。バットや手袋や、スパイクまでも変えたかと思えば、トレーニングの仕方を変えてみたり。そして、ヒットを打てば笑顔。2本出れば満面の笑み。四球を拾ってもOK。盗塁に成功しても嬉しい。チームの勝利に貢献すれば、さらに嬉々とした表情になる。
打てない時はこちらが気の毒になるぐらい落ち込むし、試合後、「クソーっ! なんであれがヒットにならねーんだよ」と悔しがったことは一度や二度じゃない。試合中、ベンチ裏で自分の不甲斐なさに怒鳴ってる姿を見たチームメイトもいれば、「いつも笑ってるけど、本当のところ、あいつは俺たちと一緒で激しい奴なんだ」と証言した者もいるほどだった。
あのニコニコ笑顔の下に、必死でメジャーの好投手たちに挑む姿があった。だが、その「必死」は、決して無謀に挑んでいるわけではなかった。
たとえば、ロイヤルズ時代の青木のハイライトの一つ、ジャイアンツと戦った14年のワールドシリーズでのこと。エンジェルスとの地区シリーズで打率.333(12打数4安打)、オリオールズとのリーグ優勝決定シリーズでは、出塁率.429(14打席5出塁)と活躍した彼は、ワールドシリーズではジャイアンツ投手陣に徹底マークされてヒットが1本しか出ず、日本のメディアから「当たりが止まっているのは大舞台に弱いからではないか?」と憶測記事を書かれた。
そのことを問うたつもりはなかったが、練習日の打撃練習が終わり、ベンチで一人いるのを見つけて話しかけると、彼はこう言った。「いつだったか、イチローさんが『ノリ、俺らはメンタルがどうとかいうレベルの選手じゃない』って教えてくれた。『打てなかったら、それはあくまでも技術の問題なんだ』とね。だから、どうやったら打てるのかをいろいろと考えるわけですよ。もちろん、いろいろやっても打てない時はあるけど、その理由を考えるのは大事っしょ? 考えるのをやめたら終わりでしょ。そういうのは引退するまで続くと思うよ」
「考えるのをやめたら終わりでしょ」。
『スラムダンク』の安西先生の名言みたいだが、肝になるのはイチローの、「打てなかったらそれは技術の問題なんだ」という部分である。青木はこう続けた。
「僕は割と全部、見せてる方だと思うけど、記者さんたちが見てないトコでもいろいろ考えながら、常にいい形を探している。でも、そんなの誰だってやってると思うよ。結果がどうあれ、野球選手ってそういうもんだから」
野球選手の前に、「一流の」という前置詞が付くべきだが、そんな言葉を聞いた数日後、今も心に残る一打を見た。それは3勝3敗で迎えたワールドシリーズ第7戦、2対3で1点を追いかけるロイヤルズが1死二塁のチャンスをつかんだ六回裏のことだ。
マウンド上には、後にシリーズMVPに選ばれる左腕マディソン・バムガーナーがいた。すでに2試合に先発して2勝を挙げていたジャイアンツのエースは、雌雄を決する最終戦の5回から、1点のリードを守るべく中2日で救援のマウンドに立っていた。 5回裏、ロイヤルズは1死二塁のチャンスを作り、青木が打席に入る。相手も必死。こっちも必死。身長193センチ、体重103キロのバムガーナーがマウンドから見下ろした時、青木は少しも怯むことなく、「さあ、来いよ!」とでも言うように、打席の地面を慣らした。思わず武者震いしたのは、次のような展開を想像してしまったからだ。
「バムガーナーは右打者なら内角、左打者の外角に速球をガンガン投げ込んでくることで知られている。青木もきっと内角を捨て、ホームプレートの外側半分で勝負すればいいと思っている。加えて彼はメジャーに来た頃のように『ゴロでもいいから、とにかくヒットを打つためにバットに当てる』という打撃から、『なるべく力強く打って、多少詰まってでもライナー性の打球を放つ』打撃へ変化しつつある。悪くても左方向への同点タイムリーヒット。もしかしたら、左翼線か左中間への長打を打てるかも――」
もちろん、当時はそんな説明口調で考えていたわけじゃない。もっとざっくりと「外角の速球が来たら、ガツンと打っちゃうんじゃないか?」というイメージだったけれど、2ボール1ストライクと絶好のバッティング・カウントになった4球目、イメージ通りの速球が外寄りに来たから、鳥肌が立った。青木のバットがそれを捉えた瞬間、記者席で思わず、「あっ」と言ってしまった。客観的に試合を見なければならない記者にとってはあるまじき行為だが、想像した通りのライナーがレフトに飛んだからだ。頭の中で、「青木の同点打」、「バムガーナー投入は失敗」という文字が踊った。
ただし、視界の片隅に、守りに定評のあるレフトのフアン・ペレスがわずかに守備位置を左に寄せているのが映った。わずかにスライスしながら、力強く飛んでいく打球と、落下地点めがけて一直線に駆け寄るペレス。スリリングな瞬間。息を呑む一瞬ののち、ドンピシャのタイミングでペレスがランニング・キャッチした。
9回裏にも同点のチャンスをつかんだロイヤルズだったが、結局は鬼神の如くマウンドに立ち続けたバムガーナーに抑えられ、ワールドシリーズ優勝を逃した(注:ロイヤルズはその翌年に30年ぶりのワールドチャンピオンとなった)。 いくつかの報道によると、ジャイアンツがこの一打を評価したため、翌年、青木を獲得したそうだが、彼らの目利きは間違っておらず、青木は打率3割をキープする活躍を見せた。ところが6月に死球による右足腓骨の骨折、8月には頭部死球の影響で重度の脳震とうとなり、打撃の下降が止まらないまま健康上の理由で戦列を離れ、シーズンを終えた。
翌16年、マリナーズに移籍した青木は、波のある序盤戦を経て6月に3Aに降格。カリフォルニア州のフレズノという町で、マイナーでの初戦を迎えた。現場についたのは試合開始の4時間前だった。球場に入ると、観客はもちろん、ホームチームの選手たちもいない地方球場の外野を、黙々と走り続ける彼の姿があった。
邪魔しちゃいけないと思って、ライトのポール際で軽く会釈し、踵を返してレフトのポールに向かって走り出した彼のTシャツの背中に、「PROVE YOURSELF RIGHT(自分が正しいと証明しろ)」というメッセージがプリントされていた。当時、マリナーズの主砲だったロビンソン・カノーがチームメイトを鼓舞するために作ったTシャツだった。
当時の青木を象徴するような言葉だと思った。当時、彼自身がこう言っている。
「マイナーに降格したこと自体は、実際、成績が残ってなかったんだから仕方がない。でも、やってたことは間違っていないと思う。マイナーに落ちる直前は打撃の調子が上がっていたわけだし。だから今は自分を追い込んでもいい。これを機会に、身体を一から鍛え直したい」
炎天下のマイナー球場でイチから鍛え直した彼はメジャーに復帰し、翌年はアストロズで日米通算2000安打を達成。シーズン途中にブルージェイズにトレードされ、最終的にはメッツでMLBにおけるキャリアを締めくくった。そして、日本球界復帰後は、スワローズの日本一に貢献し、NPB通算1954安打、MLB通算774安打を併せれば、歴代5位の日米通算2728安打(※10月1日終了時点)を記録した。 日米通算21年にも及ぶ長い現役生活。後年はもちろん家族の存在が支えとなっていたはずだが、大学時代から彼を突き動かしていたものは別にあるような気がする。
彼の引退ニュースを聞いた時、1本のヒットが打てなくて落ち込んでいた姿や、スランプの渦中に「考えるのをやめたら終わりでしょ」と言い、あわやワールドシリーズのヒーローとなるような一打を放った強気。マイナー球場で黙々と身体をいじめ、虎視眈々と復活の時を待ったシーンを思い浮かべたのは、偶然ではないと思う。
青木宣親はいつも、必死だったのだ。
考えてみれば、彼は元々、宮崎県の無名校から東京六大学の首位打者となり、プロ野球でのし上がった選手だ。あのニコニコ笑顔の下には、何が何でもプロで成功してやるという強い気持ちがあり、私がアメリカで見た彼の素顔は、そのほんの一部分に過ぎなかったのだ。
今、思えば、絶望的にクソ暑いマイナー球場の片隅で青木が言ったひとことは、彼の野球人生を反映したものであり、これからもずっと忘れないだろう。
「絶対にここから這い上がってやりますよ」
心の内に秘めた激しい思い。必死にもがき続けた稀代の安打製造機。そんな野球選手をたとえ一時期でも、至近距離で取材できたことに感謝する、引退試合の夜である――。
文●ナガオ勝司
【著者プロフィール】
シカゴ郊外在住のフリーランスライター。’97年に渡米し、アイオワ州のマイナーリーグ球団で取材活動を始め、ロードアイランド州に転居した’01年からはメジャーリーグが主な取材現場になるも、リトルリーグや女子サッカー、F1GPやフェンシングなど多岐に渡る。’08年より全米野球記者協会会員となり、現在は米野球殿堂の投票資格を有する。日米で職歴多数。私見ツイッター@KATNGO
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