巨星墜つ─。9月10日、「わたし祈ってます」「星降る街角」などのヒット曲でお馴染みの「ハッピー&ブルー」を率いた〝ムード歌謡の帝王〟敏いとうが前立腺がんのために逝去。まさに古き良き時代を知る、日本芸能史の生き字引だった。生前、時に眼光鋭く、時に笑い飛ばしながら本誌記者に発してきた言葉の数々は生き様そのもので、すべてが後進に向けた遺言に思えてならないのだ─。
敏いとうを語る上で外せないのが、マフィアとも親交があったとされる世界的な米エンターテインメント界の巨匠、フランク・シナトラのボディガードを務めたという逸話である。
その事実だけでもお腹いっぱいだが、腕っぷしの強さの根幹を本人に尋ねると、「極真だよ」と、歴史あるフルコンタクト空手の猛者であることを明かした。
かねてより、特に不良性を売りにした芸能人には「ケンカ武勇伝」が流布されることが多い。一方で敏は日本大学農獣医学部獣医学科卒という、実はインテリの経歴を持ちながら、そうした手合いを相手に一歩も引かなかったと、こう語るのだった。
「ジョー山中を殴ったことがあるな。楽屋で態度が悪いからシメてやった。ボディを一発。顔は殴らないよ。芸能人だから、顔は殴っちゃいけませんよ」
曲がりなりにも元プロボクサーの経歴を持つ、ジョーをのしたというのだ。そればかりか、業界人の多くが顔色をうかがった兄貴分にも容赦しなかった。
「内田裕也も何度かシメたな。人と人とは挨拶に始まって挨拶に終わるもの。これは芸能界だけじゃないと思うんだけどね。裕也は挨拶が気安いんですよ」
後に裕也は、一時のパートナーだった島田陽子が建てた横浜の豪邸にいた時期があった。同地は敏のホームタウンだ。
「裕也は島田陽子を散々ボコボコにしてたひでぇ野郎だよ。それが街で俺の顔を偶然に見つければ、駆け寄ってきて直立不動で挨拶したもんだよ」
一説に「芸能界最強」とも謳われた、ジェリー藤尾とも敏はすこぶる仲がよかったが、むろん腕っぷしなら自身の方が上だと言って憚らなかったのである。
一方で、女性には優しく接した。冗談半分か「5000人斬り」を豪語したこともあったが、根底にはその優しさがあったからこそ、モテたのだろう。
島倉千代子が総額16億円と言われる負債を抱えて悩んでいた時は、借金に関して根掘り葉掘り聞くようなことはせず、ただただ寄り添ってあげたそうだ。
「いつだったか、東北の巡業先で『敏さん、抱いて!』って。『明るい所でするのが好き』なんて迫られたんだ。普段は着物で隠れているけど、ああ見えて、いい体してるんだよ。特にケツがデカい女だったな」
そうつぶやくと、遠くを見つめるのだった。
(つづく)