57年前の1996年に静岡市で一家4人が殺害された強盗殺人事件で、再審(=やり直しの裁判)で無罪判決が言い渡された袴田巌さんの裁判を巡り、検察当局が控訴を断念したことがわかった。1980年、東京拘置所で袴田さんを面接した元刑務官・坂本敏夫さんの、袴田さんに対する第一印象は「無味無臭の男」だったという。
初めての面接で無罪を信じた
私が初めて袴田さんと語り合ったのは1980年7月中旬、東京拘置所北舎2階の会議室兼面接室だった。当時、私は法務大臣官房会計課で刑務所予算の要求と配付の仕事をしていた。毎年7月、概算要求書を作成するために一ヶ月余り、東京拘置所庁舎3階の大会議室を借り切って泊り込み作業をしていた。
予算要求の資料作りのため、死刑確定者、それから死刑判決を受けている被告人の面接をした。拘置所の生活で困っていることや処遇改善の希望などについての聞き取りが主な目的だった。
この時、20人近くの面接をしたのだが、その内の一人が袴田巌さんだった。袴田さんは短パンにTシャツ姿で部屋に入ってきた。
「気を付け、礼!」
刑務官の号令に合わせて、気を付けの姿勢をとり、しっかりとお辞儀をした。4人を惨殺したといわれる男の第一印象は「無味無臭」だった。
私は驚き、自分の目を疑った。
10数年の刑務所勤務で万単位の受刑者と接し、親しく言葉を交わした経験がある私にとって「無味無臭」とは、犯罪性も悪意も猜疑心もない純真無垢、まったく汚れを感じない人間のことである。こんなに完璧な「無味無臭」の被収容者を、私は刑務所で見たことがなかった。
死刑判決が確定する4か月前のことであったが、裁判について聞くと「僕は最高裁判所の判事さんを信じています」という言葉が返ってきた。
1時間余りの面接だったが、私は袴田さんの無罪を確信した。同時にそれまで持っていた検察に対する絶対の信頼を葬り去った。翌年も死刑確定者としての袴田さんと再度面接をし、無実の思いをさらに強くしたのだった。
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「証拠」とされたズボンは袴田さんの
ウエストより30センチも小さく…
1966年6月30日未明、静岡市(旧清水市)の味噌製造会社専務一家4人が刃物で惨殺され、家屋が放火されるという事件があった。午前2時ごろ、東海道線の線路を挟んだ向かいにあった、味噌工場社員寮2階で寝ていた袴田さんは専務宅の火災の消火に駆け付けた。
焼け跡からは一家4人の遺体が発見された。
警察は元プロボクサーだった袴田さんを犯人と断定、重要参考人として7月4日から任意の取り調べを始める。実家の家宅捜索(この時、彼を犯人に仕立てるために証拠を捏造したのではないか)するなどした後の8月18日、袴田さんを強盗殺人等の容疑で逮捕した。警察署内取調室では昼夜を問わず、すさまじい取り調べ(拷問)が行われた。
10日間の勾留では自白を得られず、勾留は更新された。しかし、袴田さんは、ボクサーとして培った体力と気力で拷問に耐え続けた。警察は勾留期間が満了になる20日目(9月6日)に検事を投入、自白調書を取って起訴したのだった。
11月15日、第1回公判。袴田さんの犯行時の着衣は「血染めのパジャマ」との警察発表を受けたマスコミはそのまま記事にしていたが、パジャマには、目につく血痕はなかった。
翌1967年8月31日、大量の血痕が付着した5点の衣類が味噌タンクの中から発見された。それらは味噌漬けになっていたにもかかわらず血痕の赤みが確認されるものだった。検察はここで、これら衣類は、袴田さんが隠したものだとして、犯行時の着衣をパジャマからこの衣類に変更した。
しかし、法廷で試着させたところ、上衣、ズボン共に小さく、ズボンにあっては、腰部が入らず、見た感じ30 センチ前後ウエストサイズが小さなものだった。当時の袴田さんは収監されて瘦せていたにもかかわらずだ。この時、袴田さんは無罪判決を確信しただろう。見たこともない衣類であり、はけないズボンだったのだから。
ところが、裁判所はその5点の衣類を袴田さんが犯行時に着用していたものと認定し、1968年9月11日、死刑判決を下した。高裁、最高裁でも判決はくつがえらず、1980年12月に死刑判決が確定し、袴田さんは死刑確定者として東京拘置所に拘置された。
いつ来るかわからない死刑台への呼び出しの恐怖に怯える日々を送り、徐々に精神を病んでいったのだろう。姉の面会にも出て来なくなった。