〈袴田さん再審無罪確定へ〉「私は刑務所で彼ほど“無味無臭”な男を見たことがなかった」拘置所で面接を重ねた元刑務官が語る「袴田巌の純真性」

犯行着衣は「捜査機関によるねつ造の可能性が極めて高い」

1981年4月に第1次の再審請求。日弁連が再審支援を開始するが、1994年に静岡地裁が棄却。第2次の再審請求に対し、2014年3月27日、静岡地裁は再審開始と拘置の執行を停止するという画期的な決定を下した。袴田さんは、死刑確定者という身分のまま47年7カ月ぶりに塀の外の土を踏んだのだった。今から9年前のことである。

その後、検察側の即時抗告に対して、東京高裁は2018年6月、地裁の再審開始決定のみを取り消した。弁護側の特別抗告によって最高裁は、2020年12月22日、袴田さんが犯行時に着用し、事件後に味噌タンクの中に隠したとされる5点の衣類の血痕の赤みについての審理が足りないと、高裁に差し戻す決定をした。

そして2023年3月13日、東京高裁は再審開始の決定を下した。しかも、確定判決が犯行着衣とした5点の衣類について、捜査機関によるねつ造の可能性が極めて高いと認定。「到底袴田さんを犯人と認定できない」と結論付けた。

さらに、確定判決が有罪認定の根拠とした主要な証拠については、「犯人性を推認させる力がもともと限定的、又は弱いものだった」と指摘した。
裁判官によって、こうも判断が異なるものかと不思議になるが、この決定については、三権分立の司法への信頼感を強くしたところである。

(広告の後にも続きます)

袴田さんの「死刑判決」を書いた元裁判官のその後

熊本典道さんは一審静岡地裁で無罪の心証を持ちながら不本意にも死刑判決文を書いた裁判官だった。長年、罪悪感にさいなまれていた熊本さんは、2007年にそのことを公表し、袴田さんを救う活動に身を投じていた。

以下は2018年1月9日、袴田さんが病床にあった熊本さんに会いに行った時に同行した、袴田さん支援クラブ代表・猪野待子さんの手記からの引用である(袴田さん支援クラブ発行冊子『帰ってきた袴田巌さんとともに』より)。

  *
「熊本さん、イワオを連れて来たよ」と秀子さん。熊本さんは、声のする方に眼だけを動かします。
「熊本さん、わかる? イワオだよ」
すると、「イワオ~」「イワオ~」… … 熊本さんが嗚咽、そして間欠泉のようにイワオの叫び声が噴出。私もこみ上げる涙をぬぐいました。
横にいた熊本さんのパートナーさんが私に、
「ずっと謝りたかったですけんね」
 そうなのです!
 秀子姉さんが、熊本さんの積年の思いを叶えてあげた瞬間だったのです。
 熊本さんが、浜松に来て巌さんに謝りたいと言っていることは、秀子姉さんから私も聞いていました。しかし、熊本さんは病床にあり、もう浜松に来ることは叶わない状況。それなら、いつか巌を熊本さんのところに連れていきたいとも聞いていました。
そして昨日の昼前です。お昼を一緒に食べようと、私が袴田家を訪問したのは11時。この時、まさか福岡に行くことになるとは思いもしませんでした。
「巌さん、こんにちは」と挨拶すると、
「今日のスケジュールはだね。ローマへ出かけることになっているんだ」
 と巌さん。巌さんは二つの世界の中で生きています。現実世界と袴田さん独自の精神世界とです。
 そのことを秀子姉さんに伝えると、
「なに、ローマに出かける? それじゃあ熊本さんのところへ行こう! 福岡だ!」
 と即決、13時50分発の新幹線に乗り込んでいました。
 秀子姉さんという人は、澄み切った川のような人で澱みがない。恨み辛みが澱んでいない。それに、人の心を解し、賢明で優しい人です。
「もっと早く熊本さんが告白してくれたら…とは思わない」
 と知り合って間もないころに訊いたことがあります。
「そんなこたあ~思わないさ、熊本さんだって、何も黙っていれば楽なのに、あえて言ってくれたわけだもの。そりゃ~有難いさ」
 熊本さんが巌さんの無罪の心証を公表した決断と、秀子姉さんの寛容感謝が引き合った劇的な場面でありました。
 私はまた、眼前の光景が奇妙にすら感じていました。
50年という月日が逆転をもたらしていたからです。
 今、自由を手にしている巌さん、今、ご病気で自由を奪われているのは、かつて自由を奪った側の熊本さん。
 別れ際、秀子姉さんは熊本さんの顔に触れながら言いました。
「熊本さん、元気出さにゃー」
  *

熊本さんは2020年11月11日に逝去されているが、袴田さんの再審が開始され、名実ともに無罪判決が出るまでは成仏されないのではないかと思う筆者である。

※本記事は2023年3月25日に配信したものに加筆・修正をしたものです

取材・文/坂本敏夫

さかもと・としお/ノンフィクション作家、元刑務官。1947年、熊本県生まれ。父と祖父も刑務官で、刑務所や拘置所の近くにある官舎で育ち、自らも19歳で刑務官になった。1967年1月、大阪刑務所の看守を最初に神戸刑務所・大阪刑務所係長を務めた。その後、法務本省事務官、東京矯正管区専門官、長野刑務所・東京拘置所・甲府刑務所・黒羽刑務所で課長を務める。1994年3月、広島拘置所総務部長を最後に退職した。おもな著書に『元刑務官が明かす死刑のすべて』 (文春文庫)、『誰が永山則夫を殺したのか 死刑執行命令書の真実 』『囚人服のメロスたち 関東大震災と二十四時間の解放』