世の中の人が抱いている誤解のひとつに、「外交官はテーブル・マナーに秀でている」というものがある。英国人作家カズオ・イシグロの「日の名残り」に描かれたようなイングランドのマナーハウスでのディナーなど、お手のものというステレオタイプだ。
日本外交の最前線に40年間身を置き、リングサイドから実態を観察してきた私に言わせれば、とんでもない思い違いだ。
外務省入省後の本省研修では、一応テーブル・マナーを習う。でも、初歩的なレベルにとどまり、その後キャリアの過程で再度研修を受けるなどしてアップデートされることはない。ここが外務省の決定的弱点だ。そうなると、各自が良かれと思って我流で通すことになる。
音を立てずにスープをすすり、パスタを食べることができないチャイナ・スクールの大使。ワインを試飲する際にうがいをするかの如く音を立てるフレンチ・スクールの大使。口の中に食べ物を入れながらしゃべり、食後には人差し指を挿入して歯を掃除するアメリカン・スクールの大使。反面教師はあまた見てきた。こんな低次元の所作が組織全体に伝播しているのだろうか?
駐豪大使を務めた際に、大使公邸での夕食会に同席させた若手大使館員のマナー逸脱には心を痛めたものだ。
ホスト側であるにもかかわらず、客の食事のスピードに一切配意することなく、自分の皿の食事を真っ先に平らげ、次の皿を物欲しげに待つ者。ひどいのになると、会話に参加することなく、黙ってうつむいて食べるのに専念し、足まで組み始めた。
主賓の豪州人閣僚がそうした同席者に話を振らないだけでなく、視線も向けないことに気づいたのは私だけだったのか?
「おもてなし」を標榜する日本人が引きも切らない。だが、我流を貫いていないか?独りよがりになっていないか?という謙虚な姿勢が不可欠だろう。
その意味では、会話の振り方も重要だ。例えば欧米人のゲストを夫妻で招いた際、男同士の仕事の会話に明け暮れるのも日本の外交官の悪い癖だ。「将を射んとすれば、まず馬を射よ」の至言を忘れたのか?奥方が関心を持ち、日本大使公邸に呼ばれて良かったと思わせる接待こそ不可欠なのに、果たして何人の大使・総領事がこれをできているか?これも広義のテーブル・マナーの一環だ。
その意味で頑張っていたのは、豪州メルボルンの島田順二総領事夫妻だ。
中国シンパで有名なビクトリア州首相夫妻を総領事公邸に呼んだ際のこと。食前には琴の連奏を周到に用意し、絶品の和食の後には総領事夫人自らが弓道のデモンストレーションを披露する日本アピール。眼前を音を立てて飛び去り的を射た矢を見て「ワォ」と発した州首相夫人を見て、会食の成功を確信した。
日本ならではのおもてなし。世界中に配置されている大使、総領事が夜な夜な展開したら、どんなに日本の外交力は強化されることだろうか?
在外公館長が切磋琢磨する時代を期待して、拙著「南半球便り」(文藝春秋企画出版)を後に残した次第だ。
●プロフィール
やまがみ・しんご 前駐オーストラリア特命全権大使。1961年東京都生まれ。東京大学法学部卒業後、84年外務省入省。コロンビア大学大学院留学を経て、00年ジュネーブ国際機関日本政府代表部参事官、07年茨城県警本部警務部長を経て、09年在英国日本国大使館政務担当公使、日本国際問題研究所所長代行、17年国際情報統括官、経済局長などを歴任。20年オーストラリア日本国特命全権大使に就任。23年末に退官。TMI総合法律事務所特別顧問や笹川平和財団上席フェロー、外交評論活動で活躍中。著書に「南半球便り」「中国『戦狼外交』と闘う」「日本外交の劣化:再生への道」(いずれも文藝春秋社)がある。