“脇役界最大の大物”ロバート・パリッシュ。不器用な男がセルティックスで開花するまでの前日譚【NBA名脇役列伝・前編】<DUNKSHOOT>

 ロバート・パリッシュはオールスターに9回出場、背番号00はボストン・セルティックスの永久欠番であり、バスケットボール殿堂入りも果たしている。1996年にはNBA50周年記念オールタイムチームにも選ばれた。成績を見ても疑いようのないスターであり、彼を“脇役”と呼ぶのは失礼かもしれない。

 しかし、今のファンにはその功績があまり知られていないように思える。1980年代のセルティックスでラリー・バード、ケビン・マクヘイルとビッグ3を形成していたことは有名でも、バードはともかく、当初は格下であったマクヘイルにさえも、現在の知名度では見劣りしていると言わざるを得ない。
 ■公式記録には残らなかったがその実力は誰もが認めていた

 少年時代のパリッシュは、将来NBAのスターになるようにはとても見えなかった。身体は大きかったものの不器用で、パスを送られれば必ずキャッチミス。レイアップさえまともに決められず、級友たちの笑い者になっていたのだ。本人が「最初にレイアップをマスターした時の嬉しさは、今でも覚えている」と言うほどだから、その酷さは推して知るべしだろう。

 それでも毎日練習を積み重ねた甲斐あって、高校を卒業する頃には400校を超える大学から勧誘されるまでに成長を遂げていた。しかし、そのなかから自宅に近いセンテナリー大を選択したところで、問題が発生する。

 当時、NCAAは学業成績が基準に満たない学生のプレーを許可していなかったのだが、パリッシュは大学進学適性試験を受けなかったため、高校の成績を換算した点数を自己申告していた。

 ところがこれをNCAAが問題視し、パリッシュへの奨学金を取り消すよう言い渡す。だが、この通達にセンテナリーは従わず、以降6年間にわたって「NCAAトーナメントの出場禁止と公式戦の成績抹消」という厳罰を下されてしまうのだ。したがって、パリッシュは同大での4年間で平均21.6点、16.9リバウンドの好成績を残したにもかかわらず、公式記録としては認められていないのである。
  当然、その間にはほかの大学へ転校することもできたし、プロからの誘いもあった。実際、1973年にはABAのユタ・スターズからドラフト指名されている。しかしパリッシュは「大学は何も悪いことをしていないから」と、その申し出を断った。

 1975年には自らトライアウトを受けてパンアメリカン・ゲームの出場メンバーに名を連ね、キャプテンとして金メダル獲得に貢献。翌1976年にはAP通信によってオール・アメリカンにも選出された。公式記録に残ろうと残るまいと、もはやその実力は誰も否定できなかった。

 1976年、パリッシュはドラフト8位指名でゴールデンステイト・ウォリアーズに入団。最初の2年間はクリフォード・レイとの併用だったが、3年目の1978-79シーズンにはリーグ7位の平均12.1リバウンドを奪取した。
  ペイントゾーンで強さを発揮するだけでなく、速攻に加わる走力もあり、見事なスピンターンで何度となく相手ディフェンダーを翻弄。また、打点の高いジャンプショットは“ロバート・レインボー”と呼ばれ、ブロックするのは不可能に近かった。

 1979年のニューヨーク・ニックス戦では30得点、32リバウンドを記録。30-30は以後モーゼス・マローン(元ヒューストン・ロケッツほか)とケビン・ラブ(マイアミ・ヒート)、ドワイト・ハワード(元オーランド・マジックほか)の3人しか達成していない。

 ただその一方で、プレーに対する熱意が欠けているとか、手抜きをしているとの批判もあった。勝っても負けてもほとんど表情を変えなかったため、誤解されている部分も少なからずあったとはいえ、それについてはパリッシュ本人が「あの頃の私は怠け者だった」と認めている。(後編に続く)。

文●出野哲也
※『ダンクシュート』2015年2月号原稿に加筆・修正

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