■ストイックで寡黙な男が一度だけ我を失ったのは――
1980年にウォリアーズはパリッシュとドラフト3位指名権をセットにし、1位と13位の指名権との交換でセルティックスへ放出。この時、3位でセルティックスが指名したのがマクヘイルだった。つまりセルティックスのレッド・アワーバックGM(ゼネラルマネージャー)は、史上最強のフロントラインのうち2人を一度に手に入れたわけだ。
ビル・フィッチHC(ヘッドコーチ)の妥協を許さぬ厳しい指導に反発を覚えながらも、トレーニングに全力で取り組むようになったパリッシュは、その才能をフルに開花させる。
「もし私がボールを長く持つタイプだったら、上手くいかなかっただろう」と語ったように、彼の利他的なプレースタイルはセルティックスの組織的なバスケットにフィットした。とりわけバードとのコンビによるピック&ロールは、わかっていても止められない効果的な武器となった。
1981年のファイナルでは、当時リーグ最強のセンターだったマローンをフィールドゴール成功率40.3%に抑え込み、ヒューストン・ロケッツを撃破。その後も1984年にロサンゼルス・レイカーズ、1986年には再びロケッツを下して3度の優勝を経験する。
「ロバートなしで、我々が3回も王座に就くことはあり得なかった」とバードが断言すれば、フィッチに代わって1983年からチームを率いていたKC・ジョーンズも「パリッシュはこのチームの背骨だ。彼を見ているとビル・ラッセルを思い出す。勝利のために全力を尽くす姿勢や、強烈なプライドの持ち主である点がよく似ているからね」と、かつてのチームメイトだった伝説のセンターの名前を挙げて絶賛した。
ニックネームの“チーフ”は、チームメイトのセドリック・マックスウェルが命名したもの。映画『カッコーの巣の上で』で、ジャック・ニコルソン演じるネイティブ・アメリカンの族長(チーフ)に似ているという理由からだった。強い意志を秘めた、ストイックで寡黙なそのキャラクターは、パリッシュのイメージそのものだった。
メディアから質問を受けても返答は大抵一言。試合後はチームメイトと行動をともにせず、自宅で大好きなジャズを楽しんだ。コート上では感情を表に出さず、レフェリーへの抗議やチームメイトとの口論、対戦相手とのいざこざとも無縁。本人曰く「感情のない人間だと思われたかもしれないが、それは試合に集中していたからだ」とのことだが、「まるでサイボーグのようだ」と言われることもあった。
そんなパリッシュが一度だけ我を失ったのが、1987年のカンファレンス決勝。このシリーズを通じて、セルティックスはデトロイト・ピストンズのトラッシュトークとハードなディフェンスに悩まされる。特にマッチアップしていたビル・レインビアのラフプレーは目に余るものがあり、第4戦では常に冷静なバードまでもが、レインビアにボールを投げつけて退場処分を受けていた。
続く第5戦の第2クォーター終盤、リバウンドを争った際に、レインビアの肘がパリッシュの胸部に命中する。次の瞬間、パリッシュはその大きな腕をレインビアの顔面に振り下ろした。鼻の骨を折られたレインビアはコートでもんどりうつ。本拠地ボストン・ガーデンの観衆は一瞬呆気に取られたのち、リーグ1の嫌われ者を叩きのめしたパリッシュに大喝采を送った。
「あれは恥ずかしかったね。罰金(7500ドル)なんてどうでもよかったけれど、出場停止になってチームに迷惑をかけてしまったから。あんな風に誰かに集中力を乱されたのは初めての経験だった」
■史上最高齢での優勝を最後に引退してからは不遇の時を
1990年代に入るとバードが故障がちとなり、セルティックスは競争力を失っていく。そのバードは1992年に引退し、マクヘイルも翌年に後を追った。しかしパリッシュはリーグ最高齢選手となっても、身体の異常を訴えることなく試合に出場し続けた。
「勝った時でも浮かれ過ぎず、負けた時でも落ち込まない。体調にも人一倍気を遣い、もちろん幸運も手伝って、だからこそあれほど長い選手生活を送れたんじゃないかな」(マックスウェル)
肉や油ものを控える食生活に加え、ウォリアーズ時代に兄貴分と墓っていたレイから学んだヨガも、コンディション調整に役立っていた。見た目もほとんど変化がなく、若手時代から引退するまで、体型はおろか髪型すら変わらなかった。
1994年にシャーロット・ホーネッツへ移籍して2年間プレー。そして1996年から在籍したシカゴ・ブルズでは、マイケル・ジョーダンと衝突したこともあった。
「ミスを叱責されカチンときてね。『このチームにいるのはお前に心酔してるヤツばかりじゃないんだぞ』って言ってやったのさ。彼は『あんたのケツを蹴っ飛ばしてやる』って息巻いていたけど『いいや、お前にはできないね』と返したんだ。その後、彼は私に関わろうとしなくなったよ(笑)」
この1996-97シーズン、史上最高齢の43歳にして自身4つ目のチャンピオンリングを獲得したのを最後に、パリッシュは21年間のNBA生活に幕を下ろす。通算出場試合数1611は、現在も燦然と輝くリーグ史上1位の大記録だ。
引退後は順風満帆とは言い難く、2001年にマイナーリーグのUSBLでHCを務めた後は長く定職に就いていなかった。かつての仲間であるバードやマクヘイルにコーチとして雇ってもらえないかと連絡を取っても快い返事はなく、生活費を捻出するためにチャンピオンリングもすべて金に換えてしまった。
最も手放すのが惜しかったのは、NBA50周年記念オールタイムチームに選ばれた際の記念品だったという。ようやく2016年になってセルティックスのコンサルタントの職を得たが、名誉職の域を出るものではなかった。
こうして長くNBAの現場から離れていたことも、本来あってしかるべき知名度を得られない理由かもしれないが、このまま忘れ去られてしまうには、あまりにも惜しい名選手だろう。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2015年2月号原稿に加筆・修正
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