【MLB最高の名門対決ドジャース×ヤンキース名勝負列伝:後編】"ミスター・オクトーバー"の称号が生まれた77年レジー・ジャクソンの伝説の3連発<SLUGGER>

 1958年、球場問題を抱えていたドジャースはブルックリンからロサンゼルスへ本拠を移した。この時、ジャイアンツもサンフランシスコに移転し、両球団のライバル関係が維持されたのと同時に、ヤンキース対ドジャースには東西対決という新たな彩りが加わった。

 ブルックリン時代は球場が狭く打撃のチームだったドジャースは、62年に完成した新球場ドジャー・スタジアムでは守りの野球を繰り広げる。その最高傑作が、史上最高の左腕とも言われるサンディ・コーファックスだった。63年は25勝5敗、ヤンキースとのシリーズでも猛威を振るい、第1戦ではシリーズ新記録となる15奪三振。第4戦でも1失点で完投勝ちを収め、ヤンキースは一度もリードを奪えぬまま4連敗を喫した。ヤンキースの捕手ヨギ・ベラは、コーファックスについてこのような感想を洩らしている。「あいつが25勝した理由はよく分かったが、5敗もした理由が分からない」

 60年代半ばからヤンキースは戦力を落とし、次に両者がワールドシリーズで戦ったのは14年後の77年。監督はヤンキースが喧嘩屋ビリー・マーティン、ドジャースは陽気なイタリア親父トミー・ラソーダという名物指揮官同士の対決だった。この年から導入されたフリー・エージェント制度を利用し、ヤンキースはメジャーきっての強打者レジー・ジャクソンを獲得していたが、3勝2敗と王手をかけて迎えた第6戦で、そのジャクソンのバットが火を噴いた。

 第1打席で四球のあと、第2打席は逆転2ラン、第3打席は3ラン、第4打席はバックスクリーンへ。すべて初球を叩いての3打席連発にヤンキー・スタジアムはお祭り騒ぎ。第5戦の最終打席でもホームランを打っており、4打数連発のシリーズ記録を樹立したジャクソンには“ミスター・オクトーバー”の異名が奉られ、ヤンキースは15年ぶりに頂点を極めた。 翌78年のリターンマッチは、第2戦でドジャースの若武者ボブ・ウェルチが、ジャクソンに対し9球すべて直球勝負を挑み、三振に斬って取る名シーンが生まれた。しかしながら第3戦以降はヤンキースが4連勝し王座を防衛した。

 81年の主役は、ドジャースの驚異の新人フェルナンド・バレンズエラだった。開幕戦での完封勝利を皮切りに8連勝、うち5勝が完封で大旋風を巻き起こし、新人王とサイ・ヤング賞のダブル受賞は史上初。ワールドシリーズでも、ヤンキー・スタジアムで2連敗して迎えた第3戦でバレンズエラが完投勝利を挙げ、勢いづいたドジャースは4連勝。シリーズMVPは捕手スティーブ・イェーガー、三塁手ロン・セイ、外野手ペドロ・ゲレーロの3人が揃って受賞した。

 敗れたヤンキースで戦犯扱いされたのは、22打数1安打に終わったデーブ・ウィンフィールド。10年1300万ドルという、当時としては天文学的な金額の契約(そのインパクトは、今季の大谷翔平にも匹敵するものだった)でFA加入した大砲がブレーキになったとあって、ヤンキースファンは嘆き、激怒した。

 その後、低迷期に突入したヤンキースがワールドシリーズに戻ってきたのは、15年後の96年。ドジャースも88年に世界一になった後は、2017年まで29年もリーグ優勝から遠ざかった。

 23日にはバレンズエラの訃報がもたらされた。ドジャースとしては、43年前のヒーローに是が非でも勝利の報告を届けたいところ。もちろんニューヨークのファンは、11年にNFLのジャイアンツがスーパーボウルを制して以来、とんとご無沙汰である4大プロスポーツのタイトルをヤンキースに期待している。ア・リーグとナ・リーグ、東海岸と西海岸の威信を懸けたシリーズを制するのはどちらになるだろうか。

文●出野哲也

【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――“裏歴史の主人公たち”」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『メジャー・リーグ球団史』『プロ野球ドラフト総検証1965-』(いずれも言視舎)。