サッカーダイジェストで毎号連載中の中村憲剛氏のコラム「蹴球賢語」。今回は今季限りで川崎の指揮官を退任することを発表した鬼木達監督への想いを語ってくれている。中村氏にとって鬼木監督とはどんな存在で、どんな歩みをともにしてきたのか。今の率直な胸の内を綴ってくれたコラムを、WEB版として先行してお届けする(全2回の1回目)
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先日、オニさん(鬼木達監督)の今季限りでの退任が発表されました。リリースでその言葉を読ませていただきましたが、これまでにない感情が胸に押し寄せてきました。正直、今も受け止めきれていません。心にぽっかり穴が空いた想いです。それほどオニさんの存在は自分にとって、そしてフロンターレにとって大きかったんだなと突きつけられた感覚でした。
監督という職業はいつか交代するのが当たり前。オニさんも僕が現役引退を告げた時に「自分が指揮している間に憲剛の引退は来るんだろうな」と話していました。なので、オニさんがいつかフロンターレの監督から退く日が来ると僕も頭では理解していました。
でも、いざ向き合ってみるとやはり難しいものがあります。それこそ“そこにいて当たり前の人”だったからこそ…。2017年から指揮して8年、選手時代、コーチ時代を含めればフロンターレにいて26年ですからね。これだけの結果、功績を残した人がいなくなるわけですから、やっぱり簡単には整理できません。
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個人的には、元同僚であり、先輩であり、同じポジションのプレーヤーであり、何回もご飯を食べに行った仲で、オニさんが引退してコーチになって帰ってきた時は、コーチとキャプテンの間柄で、あーでもない、こーでもないと何回も話し合いました。その後、監督と選手の関係になり、僕が引退したあとはFRO(フロンターレ・リレーションズ・オーガナイザー)と監督としての関わりに。関係性は変われど20年近く一緒にいました。
それだけ長く苦楽をともにし、成長させてもらい、もちろんキレイごとばかりではなく意見をぶつけることもありました。でも、それは互いに真剣に取り組んできたからであり、それ以上にオニさんは選手のことを、チームのことを何よりも考えてくれる人で、僕らの声をどんな時でも聞いてくれました。そして観てくれる人たちを感動させようと情熱を傾けたうえで、とにかく勝つことにすべての力を捧げられる人でした。
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僕にとってオニさんは先輩であり監督なので、ふたつの側面からエピソードを語りたいと思います。まず先輩として。僕がプロ1年目の2003年からオニさんが引退する2006年まで4年間一緒にプレーしました。
正直な話、めちゃくちゃ怖かったです(笑)。内容が悪かったり、負けた時などは一目で分かるほどでしたし、チームメートにも厳しい言葉をかけていました。ただ、それも本気で勝ちたい気持ちがそうさせていたと思いますし、個人的にはその熱さに引っ張られるところもありました。
だからオニさんが監督になってから、ハーフタイムや試合後にこれはブチ切れられるなと思うような時が幾度となくありましたが、そこでキレることはありませんでした。現役時代を知っている身からすれば拍子抜けするほどで、ひとりで何回身構えたことか(苦笑)。なので、監督になってからは、はるかに穏やかな印象でしたね(笑)。
一方でお茶目で面倒見が良く、相手のことを常に思いやり、人を笑わせようとしてくれる人でもあったので、本当に周囲から慕われていましたし、引退後は指導者になるんだろうなと勝手に想像していたほどでした。
昼食に誘ってもらうことも多く、サッカーの話をたくさんしました。ボランチの動きなども教えてもらい、一緒にピッチに立った際にはその背中からも多くを学ばせてもらいました。自分がセキさん(関塚隆監督)の下でトップ下からボランチにコバートされたプロ2年目、同じポジションにはオニさん、相馬(直樹)さん、ベティ(久野智昭)さん、山根(巌)さんら諸先輩がおり、僕も含めてローテーションのような形で起用されていました。
そのなかで今も忘れられないのが、2004年5月、等々力での京都パープルサンガ戦。僕が初めてボランチとして先発した試合での相棒がオニさんでした。その試合で僕はジュニーニョの決勝点に絡み、1-0での勝利に貢献することができました。
上位対決でもあったため、そこで初めてボランチとしてスタメン出場した自分が、チームの力になったことは大きな一歩になりましたし、オニさんに支えてもらいながら自信を手にできたことをよく覚えています。その後も2004年はよくボランチでコンビを組ませてもらいました。その意味では、オニさんは「ボランチ・中村憲剛」が出来あがるまでの恩人とも言えるわけです。
オニさんはその後、多くの怪我に見舞われ、2006年に引退を決断されました。本当に寂しかったです。でも、その後もフロンターレに関わってくれるのだろうなという想いもありましたし、実際にスクールやアカデミーでの指導を経て2010年にコーチとしてトップチームに戻ってきてくれた時は嬉しかったです。
コーチ時代、なかなか監督にぶつけられないような悩みをオニさんにたくさん聞いてもらい、随分と支えてもらいました。2016年にリーグ最年長でMVPを受賞できたのは多くの方のお陰ですが、オニさんの存在も大きかったです。
そしてオニさんがフロンターレの監督になった2017年。風間(八宏/前監督)さんと(大久保)嘉人が去り、周りは新しい船出に不安視する声もありましたが、これまでのオニさんとの経緯も含めて、「この人をなんとかして勝たせたい」と、僕の心は決まっていました。攻撃の部分を前任の風間さんの下で強化し、オニさんの下ではまず守備を整理しようという共通認識もありました。
序盤戦は、新戦力のアキ(家長昭博)、阿部(浩之)ちゃんらとの融合などを含め、負けはしなかったのですが、得点数が減り、勝ち切れない試合が増えるなど苦戦しました。
それでも徐々に復調し、7月に大雨の等々力で磐田に大敗(●2-5)したあとから、これだったら勝っていけるという手応えを掴めるようになり、最終的に悲願のリーグ初制覇を果たせたのは感慨深い思い出です。これまでのクラブの歩みを知っている分、優勝が決まって抱き合った瞬間のことはいまも鮮明に覚えています。
構成●本田健介(サッカーダイジェスト編集部)
後編へ続く