「私はこれからもずっと一人で何もつかめずに生きていくのか、と漠然と思っていました」――こう話すのは、大人気の焼き芋屋『いも子のやきいも』店主の阿佐美やいも子さん。彼女のもとには、ホクホクの焼き芋と温もりを求めて多くの人が集まります。
そんないも子さん、20代のころは、アルバイトを転々とし、一度も正社員としてはたらいたことがなかった自分に強いコンプレックスを抱いていたのだそう。
いも子さんはなぜ、『いも子のやきいも』を始め、20年近く走り続けてこられたのでしょうか。その理由と、生きるうえで大切にしている考え方を伺いました。
はたらく自分に自信を持てなかった20代
──28歳で焼き芋屋『いも子のやきいも』を開業するまでは、どのようなはたらき方をされていたのでしょうか?
19歳のときに両親がはたらいていた工場が倒産したことで、家計を支えるためにアルバイトを転々とする生活を送っていました。できれば家にこもっていたいけれど、不景気と年齢から両親の雇用先もなく、生きていくためには私がはたらくしかないような状況で……。
ただ、私はADHD(注意欠如・多動症)を抱えていることもあり、アルバイト先でも業務上のミスが多かったり、遅刻や忘れ物を頻繁にしてしまったりと、はたらく自分に自信を持てずにいたんです。少しオーダーを間違えただけで、1日中落ち込んでしまうこともありました。
ファストフード店やファミリーレストラン、リゾートバイトや年賀状の仕分けまでさまざまなアルバイトを経験しましたが、みんなが当たり前にこなせる仕事をまったくできず、落ち込むばかりで。半年続けられたものはありませんでした。
──アルバイトはどのように選んでいたのでしょうか?
時給の良さとおもしろさです。小さいころから「食」にかかわることが好きだったこともあり、飲食店のホールや調理にはとくに強い関心を抱いていました。最後にやっていたのはパートの調理師です。
──仕事を探すうえで、向いていることやできそうなことではなく、「おもしろさ」を追い求めてきたのはなぜでしょうか?
自分の成長を実感することで、はたらくモチベーションを得たかったのだと思います。昨日できなかったことが今日はできること。たとえば、前回は作るのに2分かかっていたお稲荷さんが今回は1分50秒でできた、のように。当時はそれを「おもしろい」と言語化していましたが、いま振り返ってみると、アルバイトを通して自己肯定感を高めたかったのかもしれません。
あとは単純におもしろくないと寝てしまうので……。アルバイト中に立ったままウトウトしてしまったり、トイレ休憩で気付いたら夢の中にいたり。精神的にも身体的にも自分の興味があることでなければはたらけないのもまた、悩みの種でした。
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本屋での運命の出会い。「私、焼き芋屋を始めます」
──そんないも子さんが、なぜ焼き芋屋を始めようと思ったんですか?
古本屋で、移動販売に関する本に出会ったことがきっかけです。当時はカフェを開きたいな、と思っていたのですが現実的に難しいと半ば諦めていました。でも、移動販売ならリヤカーは当時30万から買えたし、農作物を加熱するだけなので保健所の許可は不要で、届けを出せばいいだけ。また、2021年6月からは食品衛生責任者の資格が必要となりましたが、当時は何の資格も必要ありませんでした。「これなら自分にもできるかも!」と思ったんです。
当時は28歳にもかかわらず一度も正社員としてはたらいた経験がないことに、強いコンプレックスを抱いていました。周囲を見渡せば、毎日必死になってはたらいている人や結婚して子育てに励んでいる人が多くいる中、「私はこれからもずっと一人で何もつかめずに生きていくのか」と絶望していた時期だったんです。
みんながやりたいことを見つけていく。でも、私は見つけられないのかもしれない。絶望の中でいつか一筋の光が差すことを信じていたんだと思います。ずっと、「何かになりたい」「自分らしく生きていきたい」と願っていました。
それもあって、本を開いた瞬間、身体に電流が走りました。なんの当てもつながりもありませんでしたが、「焼き芋屋を開業する自分を信じてみたい」と思ったんです。
──運命的な出会いだったんですね。焼き芋屋をやると決めたとき、まず何から始めましたか?
まず、宣言しました。「私、焼き芋屋を始めます」と。私の場合はSNSで発信しましたが、友人や知人に話すのでも良いと思います。
宣言すると、「おもしろいことを始めようとしている人がいるぞ」と周囲が興味を持ってくれて、応援してくれるようになります。すると、開業に必要な情報やつながりが集まってくる。自分を助けてくれる人が増えることを知りました。そんな人たちにいろいろ教えてもらいつつ、リヤカーの手配や機材の準備などに取りかかりました。